世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG)

第3回世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG 2013)に出ます。
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第3回世界メディア芸術コンベンション

「異種混交的文化における批評(クリティーク)の可能性」
異種混交的文化における「批評」をテーマに、国内外の9名の哲学、社会学音楽史、芸術学などの研究者によるパネルディスカッションやラウンドテーブルを開催します。文学や美術といった芸術領域においてきわめて重要な役割を果たしてきた「批評」は、現代的状況にふさわしい新たなスタイルを見出せるのか?そうした新しい批評のスタイルとはどんなものでありうるのか? この会議では、そうした問題をめぐる率直な議論を交わします。

会期:2013年2月16日(土)〜2月17日(日)13:00〜17:00
会場:政策研究大学院大学 想海樓ホール
登壇者:エルキ・フータモ、吉岡 洋、室井 尚、大澤 真幸、岡田 暁生、加須屋 明子、佐藤 守弘、吉田 寛、吉村 和真

二日間にわたって四つのセッションが行われるのですが、私が参加するのは以下です。

≪セッション3≫2月17日(日)13:00〜15:00
テーマ「異種混交文化の批評的ポテンシャル」
講演1:エルキ・フータモ「メディア考古学──〈進歩〉の批評的解体」(仮)
講演2:大澤真幸 「異種混交文化と新しい〈批評〉の可能性」
ディスカッション
【パネリスト】エルキ・フータモ/吉村和真吉田寛佐藤守

ちょうど昨年の今頃は、メディア芸術部門会議を企画していたのですが、今年はその会議はありません。その代わり、というわけではありませんが(事業としてもまったく別ですので)今年は世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG)に出ることになりました。テーマは「異種混交的文化における批評(クリティーク)の可能性」です。
昨年はゲーム部門を企画する側だったのですが、今年は完全に呼ばれる側である点、また今回は打ち合わせの段階でもとくに役割・立場が固定されておらず、セッションのテーマ「異種混交文化の批評的ポテンシャル」をめぐって自由な発言が求められている点が、昨年とは異なります。
企画する側や聴衆の側からみれば、これまでもメディア芸術祭に関わってきた私が入っていることにとくに違和感はないのかもしれませんが、最近、芸術(アート)の世界にはなるべく近づかないようにしており、「エンターテイメント」という枠組みでゲームが評価されているフェスティヴァルだから、まあ何とかお役に立てるかも、というスタンスでメディア芸術祭にかかわってきた私としては、「文化」や「批評」というのはけっこう難問です。
とにかく私は、
「ポピュラーカルチャーも十分に成熟した〈文化〉である」
「ゲームは日本が誇る〈文化〉であり、ひょっとしたらもはや〈芸術〉の域に達しているかもしれない」
といったロジック(レトリック)を禁じ手にしているのです。そうした(これまでも延々繰り返されてきた)正統性争いには飽き飽きしているし、基本的に無価値で下らないと考えているからです。そういうエンパワーメントを必要とする人々や業界の事情は理解しますし、その存在は認めますが、それは勝手にやって下さい、私を巻き込まないで下さい、といったところです。
ところで、そういうロジックは、
「どんなに低俗なものでもガクモンの対象にすると深い考察が得られますよ」
「うちの大学の売りは、あなたが興味をもつものすべてを学べることです」
といったかつてのニューアカ的な論理を髣髴させます。
そういうのを私は「アカデミズムにおける位置エネルギーの法則」と呼んでいます。「高尚な大学(教授)」が「低俗な文化」に手を伸ばす、というだけで「価値」が発生するロジックだからです。そういうものこそ、最悪の「既得権」ではないでしょうか。自らの「高い」位置「だけ」を「売り物」にしているからです。ただしそれは当然のことながら、自らの立場を「切り崩す」ことでエネルギーを発生させてきたわけで、その結果、今や大学(教授)に「文化的権威」などまったく残っていません。そんなもの、きれいさっぱり無くなってしまいました。自らすすんで切り崩してきたわけですから、当然です。たしかに昔は「位置エネルギー」だけで食っていけたのかもしれませんが、それは期間限定の話であって、もはや大学はエネルギーを発生させるような「高さ」を持っていません。それなのに、大学がいまだ「高尚」な場であると勘違いして(偽装して)、「何と大学でもゲームが研究できます!」などと言うのはただのバカです。当の私自身がそのように思われてバカにされている可能性は否定しませんが(笑)、少なくとも私はそうしたロジック(レトリック)を無効と考えているのです。「位置エネルギーの法則」ではこの先、大学は立ちゆかないだろう、これからはやはり「運動エネルギー」が必要だろう、と(笑)。
話を戻しますが、今あげた例の中の「大学」の代わりに、「美術館」や「国家(文化行政)」を代入しても、同様な「位置エネルギーの法則」が成立します。それは見方を変えれば、文化や芸術に対する「外的な」権威付けです。どんなに低俗に見えるものでも美術館に収蔵されれば、あるいは国家の助成を得られれば…というわけです。それは「いつか来た道」です。
ですから、せめて「批評」は、それがまともな存在価値を持つものとして機能するならば、そうした「外的な」権威付けに抗ってもらいたいな、と思っています。でもそういう「批評」観というのは、きわめて「ロマン主義的」であり、「芸術の自律性を確立すべし」というモダニズム的立場と一体何が違うのかと問われれば、自分でもすぐには答えられません。
理想的な「批評」があるとしたら、それは「外的権威付け」に対する「内的権威付け」を行う(例えば、その作品をしかるべき芸術ジャンルや歴史の中に登録する)だけではなく、「権威」そのものを解体するものかなと思いますが、そこから先は、私には理論化は無理ですね。また、あなたの考える「成功した批評」の例をあげて下さい、と言われてもあげられません。当日までもう少し考えますが。
繰り返しになりますが、私は、ある対象が「文化」であるかどうか、「芸術」であるかどうか、あるいは正当な「文化」や「芸術」がいかなるものであるか、といった議論に巻き込まれて、人生の時間を一秒でも無駄にしたくはないのです(むろんそこから簡単に逃れられるとも思っていませんが)。そんな(小文字の)政治をやるくらいなら、(大文字の)〈政治〉をやった方がマシだ、と思っているくらいです。ですから「批評」という装置が、そうした(小文字の)政治に絡み取られるような傾向──「批評がきちんと確立されていない領域は、やはり文化としては二流である」といった──があるなら断固反対します。
こんなネガティヴなことしか考えてなくて大丈夫かな、オレ(笑)。
[2013.2.17追記]
結局は「〈批評〉するメディアとしてのゲーム(Video Game as Self-Critical Medium)」というタイトルのもと、ベンヤミン/スーパー(ペーパー)マリオ/マクルーハンという「三題噺」を作りました。各パネリストの役割・配置上(やや強引にでも)批評とつなげるかたちでゲームネタを入れた方がよいだろうと判断したからですが、それで正解でした。短いプレゼンテーションでしたが、その後のディスカッションの中でもたびたび「回帰」する話題が提供できましたし、終了後にうかがったところフロアの反応も上々でした。