最近出版されたものたち
まずは神戸大学芸術学研究室の紀要から。少し前に出たものですが遅ればせながら。
全容は増田展大さんのブログを参照していただくとして、ここでは私が深く関わった「特集:テレビゲームの感性的論理」をご紹介。
神戸大学芸術学研究室編『美学芸術学論集』第七号(2011)
〈特集〉テレビゲームの感性的論理──ニューメディアと文化
唄邦弘「テレビ(ビデオ)ゲーム論へ向けての覚え書き」
太田純貴「ヴィデオアートとLSD──リンダ・ベングリス《NOW》を中心に」
吉田寛「ビデオゲームにとって「リアルな空間」とは何か?──〈第三の次元〉の表現技法を中心に」
河田学「(コンピュータ・)ゲームの存在論」
「テレビゲームの感性的論理──ニューメディアと文化」討議/文献紹介
(※目次&すべてのテキストのダウンロードはココから)
基本的には昨年11月に神戸大学で行ったフォーラムが活字になったものです。大学の研究室紀要をこうやって特集形式にして企画とリンクさせることは、本当に素晴らしいです。「外向け」にはいい宣伝になりますし、そこから結果的に「内向け」にもいい効果・刺激がもたらされるに違いありません。とはいえ、言うのは簡単でも、なかなか実行に移せるものではありません。仕掛け人・責任者である前川さんと、編集作業にあたられた増田さんには、本当にありがとうございました、そして、お疲れ様でした、と言いたいです。
すべてのテキストがすでに(即座に)レポジトリ化されてPDFで読めるのも素晴らしいですね。
次に本日届いたばかりの新刊雑誌から。
「DVD発クラシック名作劇場」というリレー連載の枠で、DVD評というのを初めてやってみました。もの凄く忙しかったので迷ったのですが、ヴァーグナーだから、という理由でお引き受けしましたが。ですが、ここが実は罠の始まりで、ヴァーグナーの楽劇が総じてめちゃくちゃ長い、ということが後で(とくに締切直前になって)効いてきました。同作品の四つの演出を比較して論じているのですが、『ローエングリン』は全三幕200分なんですね。つまりざっと三時間半。それをタダでさえ激務の中、平日に見るわけですよ。三時間半×4ですよ。観るだけで。えぇすべて飛ばさないで観ましたよ。その間、何度朝帰りしたことか。
まあ苦労話はおいておき、これを書きながら、ヴァーグナーにおける「合唱」の機能を初めて主題的に考えましたので、有意義でした。テーマは何でもよかったのですが、四本のDVDを観て、この作品の演出の歴史を調べていくうちに、これは合唱しかないだろうと。合唱(コロス)がギリシャ悲劇にも附随していたことは有名ですが、実はギリシャ悲劇そのものの起源が合唱にあるとも言われています。酒神デュオニソスの祝祭における讃歌「ディテュランボス」は合唱隊によって歌われ、そこに一人、また二人とソロの俳優を登場させることで、演劇(悲劇)としての形態が整っていった、という説です(テスピスが俳優を一人立て、アイスキュロスが二人立て、ソフォクレスが三人立てた、と言われる)。ですから合唱は、いわばギリシャ=ヨーロッパ芸術の根幹に関わる、歴史的にも思想的(ニーチェ『悲劇の誕生』!)にも深いテーマなので、それについて私は何も分かってはおらず、今回はそれを追求する上でのいいきっかけをもらった、と思っています。
ちなみにヴァーグナーの台本では合唱のパートがしばしば「Volk」と名付けられています。これは第一義的には「群集=民衆」ですが、もちろん「民族」の含意も多分にあります。つまり彼の楽劇の中で合唱は(ギリシャ悲劇の場合と同様に)作品に対する「メタレベル」な「批評」機能を持つと同時に、ときに「主役」に匹敵する劇作上の地位を占めます。では『ローエングリン』の場合は? あまりネタバレも何なので、後は読んでみて下さい(笑)。
その他、幾つか小さな書き物を刊行順に。
吉田寛「新刊紹介:長木誠司『戦後の音楽──芸術音楽のポリティクスとポエティクス』」、表象文化論学会ニューズレター『REPRE』第12号
これはオンラインマガジンですのでココで読めます。
これは同じN響のパンフレットの2007年10月号に載ったものの再掲載です。現在編集協力を行っているアルテスさんから再掲載の打診があり、快諾しました。通常、この手の曲目解説は「使い捨て」なわけですが、時間をかけて色々と調べてうんうん言いながら書いたものには、単なる個人的思い入れ以上の(微細な)学術的価値があるはずで、昔のものを再掲するというアイデアは悪くないと思います。何もしないで原稿料(というか二次使用料みたいなもの)が何割かいただけるというのもサラリーマン世帯には嬉しいですね(笑)。
今週末に新潟で開催される日本ドイツ学会のご案内は、また明日か明後日にでも書きます。現在鋭意準備中です。