研究会・学会のご案内【9/21追記あり】

[2011.9.21追記]
台風15号による暴風警報発令のため、本日16時から予定していましたRCGSの研究会は中止(順延)となりました。新しい日程が決まり次第、お知らせいたします。

今週は研究会・学会での発表が二つあり、目下準備に追われています。

立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)
2011年度第五回定例研究会
日時:2011年9月21日(水)16:00〜18:00
場所:立命館大学アート・リサーチセンター(衣笠キャンパス)多目的ルーム(入場無料・事前予約不要)
「〈複数的世界〉経験としてのビデオゲーム──「フィクション/リアリティ」パラダイムからの離脱」
発表者:吉田 寛(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
発表要旨:これまでビデオゲームをプレイする経験はしばしば「フィクション(虚構世界)」の枠組みの中で語られてきた。その場合、「リアリティ(現実感)」の度合いがそのゲームの経験を理解・評価する上での最大の基準とされる。だが本発表ではそれとは少し異なる観点を提示してみたい。すなわち、ビデオゲームをプレイすることはそれ自体において〈世界の複数性〉の経験であり、それを分析するには通常言われるような(現実との対応の度合いとしての)リアリティとは別種の、いわばビデオゲームの経験に独自のリアリティの次元を設定しなくてはならない、ということだ。本発表では具体的な事例を紹介しながら、ビデオゲームにおける〈複数的世界〉経験を、画面空間の分割(部分と全体/異なる物理的世界の並置)、主客の役割交替、顕在的二重性(可視的レイヤー)、潜在的二重性(不可視的レイヤー)、記号論的二重性(意味論的次元と統語論的次元)など幾つかのケースに分類して提示する。

立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)のサイトは以下。
http://www.rcgs.jp/
今まさに準備中ですが、事例の検証と視点の提示はできても、それらを理論的枠組みにうまく落とし込むのは難しそうです。予告用の要旨を書いた時点では割とフィクション理論を一枚岩的に捉えていて、そこからの「離脱」ができるかな、と甘く考えていたのですが、いざ調べていくと、ゲーム関係文献に限定してもフィクション理論はまさに百花繚乱で、離脱どころか「着地」もできない有り様(←というか、もう少し調べてから要旨書いた方がいいですよ)。ただしゲーム研究が参照するフィクション論はだいたい決まっていて(パヴェル、ライアンあたり)そこから出発して(ビデオ)ゲームのフィクションのあり方を独自に理論化した人は少ない(ユールを含めて二、三くらい)ので、今後突っ込みようはあるかな、と。それが分かったのが収穫。
またこの発表の構想を練るうちに、自分のゲームへの関心が以前のような運動/視点/空間構築といった視覚文化論的問題構制から、虚構世界/リアリティ/想像力の問題へとシフトしており、そのためには並行世界/可能世界論やフィクション論といった多少ハードな理論モデルを最低限吸収しなければならない、と自覚し始めたところ。ただし感性学からあまり離れると「他人の褌で相撲」状態になりかねないので要注意。
だがそれ以前に私自身の(というよりゲーム研究全体の)術語が安定しておらず、世界/次元/レイヤー/空間など類義語がたくさん出てきてしまうので、そこを整理しないことにはどうにもならないなと。フィクション理論はだいたい分析哲学の世界なので、術語や概念を確定・精査しないと接合したくてもできませんから。
お次はこちら。

日本音楽学会西日本支部第4回(通算355回)定例研究会
日時:2011年9月24日(土)午後1時30分〜5時
場所:神戸大学大学院人間発達環境学研究科 C棟101号室
(「神戸大学 六甲台キャンパス」内の「鶴甲第2キャンパス」)
司会:大田美佐子
内容:研究発表
1. 木本麻希子(神戸大学)「S. プロコフィエフ『戦争ソナタ』3部作──主題動機と循環構造に関する一考察」
2. 藤田隆則(京都市立芸術大学)・森安未来(大阪大学大学院博士前期課程修了)「能のヘテロリズム──複数の立場の共在」
3. 吉田寛立命館大学)「マールプルクと音楽における「ドイツ的なもの」の構造転換──近代芸術思想における「ナショナルなもの」の一成立過程」

(吉田の要旨)本発表は、ドイツの音楽批評家フリードリヒ・ヴィルヘルム・マールプルク(1718-95)の著作の読解を通じて、音楽における「ドイツ的なもの」の理念が一八世紀半ばに大きな構造転換を遂げたことを明らかにし、そこから翻って、近代の芸術思想にとっての「ナショナルなもの」の価値と機能──決定的に重要とされつつも、その内実は空虚で定義不可能、という逆説を孕むものとしての──を歴史的・批判的に検証するものである。

日本音楽学会関西支部のサイトは以下(本例会の案内に飛びます)。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/asia/msj/#355
六月に新潟の日本ドイツ学会で発表したテーマの続編のようなものです。芸術家の「生まれながらの気質」と結びついた創造性やスタイルを絶対視する、というのは通常「十九世紀的モデル」と考えられていますが、それが十八世紀半ばにすでに見られる、ということを思想史的に指摘します。この時代のドイツの音楽理論家は概ねフランスの影響を受けており、このモデルも例外ではなくフランスから入ってきたものでした。ではそのフランス人はどこから?と気になりますが、この発表では「起源探し」はほどほどにして、そうした発想がどこまで歴史的に限界付けられるのか(それとも超時代的・普遍的なものなのか)ということも同時に考えてみたいです。そのためにも(音楽学会という枠内とはいえ)色々な時代、国、文化の専門家の人に聴いてもらいたいなと思っています。
明日はゲーム研究の関連で某新聞社から取材を受けます。もしも記事になる(なった)場合にはまたご案内します。
他にも幾つかこのブログでご案内したい(しなくてはならない)ことがありますが、今日ここで一緒に書くと情報量が増えすぎるのと、最近の私は目先のこと(明日明後日レベルの締切)で頭が一杯で、その先のことを思いやる余裕が失われていますので、また次回にします。