「アカデミズムの使い方──越境する知と多様化するキャリアパス」

もう明日に迫り、随所で広報も打ってきましたが、主催者の一人として一応ここでも告知をば。

立命館大学大学院先端総合学術研究科 シンポジウム
「アカデミズムの使い方──越境する知と多様化するキャリアパス
日時:2013年2月24日(日)14:30-18:30
場所:立命館大学 衣笠キャンパス 創思館カンファレンスルーム
(参加費無料・参加資格無し)
主旨:現在および将来の文化とその産業にとって、大学におけるアカデミズムと、そこに収まらない研究・批評・表現が果たすことができる役割とは、何なのか。大学をとりまく状況の急変のなかで、人文・社会系を学んで/学びつつ生きていくとは、どういうことなのか。大局的な未来像の提示と、具体的なキャリアパスの検討を往還しつつ討議する。
登壇者:宇野常寛(評論家)/大野光明(立命館大学日本学術振興会特別研究員)/千葉雅也(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)(司会者)/西田亮介(立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘准教授)
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私は企画責任者として開会前にご挨拶をさせていただきますが、たいしたことは喋りません。内容についてはさほどタッチしておらず、完全な裏方として、司会の千葉さんを初めとする登壇者の皆様に全面的にお任せしてあり、私個人としてはむしろ、今後の大学院教育のあり方や自身の「身の振り方」などを考えるために、大いに「勉強」させていただこうと考えております。
「アカデミズムの未来」を構想する上で、私はもはや「十分に若くない」ことを自覚しており、「老兵去るのみ」(裏方に回るのみ)で出る幕はありません。そして今回のシンポジウムの理想的な受け手として想定しているのは、さらにずっと若い世代、すなわち近い将来アカデミズムに入ってこようとする(そしておそらくこのままでは入ってこない、あるいは大学を「素通り」してしまう)大学一年生や高校生などです(実際には大学院生以上の参加が多いことが見込まれますが、それはそれとして)。今回、意識的に「朝生」クラスの登壇者を揃えたこと、そしてUSTREAMで同時中継を行うのもそのためであり、京都に来ることができない人達、あるいはそもそも大学という場所と(まだ)縁がない人達にこそ、ぜひ聞いて欲しいと願っています。
(なお、私がエステティックスを「感性学」として再構築したいと考えている、その動機の「宛先」は「外部」の人達、主として「これからこの世界に入ってくる人達」(若者)に置かれています。将来この世界に入ってくる人達にとっては、「美学」というよりも「感性学」としてエステティックスを捉えた方が、学問としてのやり甲斐や魅力が大きいだろうと確信しているからであり、すでに「同じ舟に乗っている」人達(大学院生以上の研究者)への影響やそこからの(ありうる)反発などはそれに比べれば些細なものと考えています。あまりそこには目線を置いていません。むろん意気投合してくれる仲間がいれば歓迎しますが、同じ業界の中でチマチマつっつきあっていては全体として先細るだけだし、色々な意味で「緊急事態」である今は、なおさらそういう場合ではないだろう、と。)
というわけで(だいぶ飛躍しますが)自分の中で勝手に作った(さっき風呂の中で思い付いた)明日のキーワードは「誘惑 seduction」です。誘惑というのは基本的に「不謹慎」な「共犯関係」であり、また誘惑「する」側と誘惑「される」側は、まったく違う欲望と利害関係、経済原理で動いています。また誘惑されることは、自分の身も心も引っくるめて惹き付けられるということですから、善悪・正誤の判断もそこでは宙づりになっています。にもかかわらず、われわれは日々誘惑されているし、ときにはしてもいるし、誘惑は人を動かす原動力として現実にかなり機能している。今振り返れば私がアカデミズム(というと大袈裟ですが、研究の世界)に吸い寄せられたのも、そうした「誘惑」の力によってだったと思います(もちろん、その際には研究室・学会組織や師弟関係、奨学金といった制度的側面が重要条件となっており、そうした「値踏み」の上で誘惑は成立します。これは恋愛などと一緒)。また誘惑というのは(これも恋愛と同様)「絶対的」関係と見せかけて、その実、まったく「相対的」なものですから、「アカデミズムの誘惑」も、今日のわれわれを取り巻くその他の「誘惑」との力関係の中で考えていかなくてはなりません。誘惑の力が大きいところには優秀な人が集まってきて盛り上がる、それが小さいところからは人が去って行って(スカみたいな人だけが残って)寂れる、それが世の当たり前の原理です。誘惑の力の前では、「既得権」による「囲い込み」など無力です。いくら制度だけ作っても肝心の誘惑がなければダメということです。しかしながらその一方、誘惑というのは(それこそがもっとも)「世俗的」原理であり、何ら「気高い」ものでも「禁欲的」なものでもありません。快楽や承認、自尊心、スリル、見返り、報酬といった平俗な価値こそが、誘惑に力を与えているわけです。「ピクリ」とこなくてはダメなのです。従って「隠遁せよ」「自己抑圧せよ」「黙ってついてこい」とかいうのは、基本的に「誘惑に失敗している」人がいうセリフだと私は考えています。その意味で、誘惑は「ルール」や「制度設計」に大きく左右されます(それが〈ゲーム〉だとは私の立場からは口が裂けても言いませんが)。アカデミズムも人の動きによって作られる以上、誘惑というのは(なかなか把握・モデル化しにくいにせよ)無視できない重要なファクターだと思います。その辺りのことを頭の片隅に置きながら、明日は臨みたいと思っています。会場でまたはUSTREAMを通してお会いする方々も、そうでない方々も、皆様よろしくお願いします。