言ってしまった後で反省したこと二つ

まったく脈絡もなく、時機も関係なく、これまで私が言ってしまった後で反省したエピソードを二つ書きます。一つはかなり昔のことで、もう一つはごく最近のことですが、どちらも、それ以後の私の言動や価値観を変えた、トラウマティックな出来事なので、身近な人にはすでに話したことがあるかもしれません。
一つ目は、私が大学生(か大学院生)の頃。新宿紀伊國屋本店のエレベーター(確か二台あるのだけど、なかなか自分の階に来ないヤツ)に乗っていたとき。小学生くらいの男の子とその母親らしき二人と乗り合わせた。母親が先に降りて、しばらくその男の子と私は二人きりになった。母親は降りる前にその子に声を掛けたのだけど、それが英語だった(終わったらすぐに降りてきなさいね、みたいな内容だったと思う)。その親子は、見た感じは日本人だったんだけど、英語で喋っていたので、私はその子に「どこで降りますか?」と英語で話し掛けた。そしたらその男の子は「ボク、日本語できますよー」とすごく悲しい顔で言った。これは完全に間違えたことをやってしまったと思った。
「ボク、日本語できますよー」と子どもに言わせるなんて、最低の大人だ。深く傷つけてしまったに違いない。おそらくその子にとって、そう言われるのは、初めてのことではなかったのだと思う。そのような言い方に感じた。だからこそ、私の自己嫌悪も深かった。彼を傷つけ続けている人間の一員に、私も加わってしまったのだ。「ボク、日本語できますよー」。彼の悲しそうな言い方は今でもはっきりと耳に残っている。その場での「正しい」振る舞い(声の掛け方)がどうであったかは、当時も今も分からない。けれどもそれ以来私は、同様な場面に(日本で)遭遇すると、相手が大人か子どもかにかかわらず、相手が日本語を解するかどうか分からなくても、基本的にまずは日本語で話しかけることにしている。その方が、相手を傷つけてしまう可能性がより少ないと思うからだ。
もう一つは、最近とある出張先の大学で出会った、留学生とのやりとりだ。彼はとある隣国から来て二年目くらいで、日本語は問題なく話せる。日本で五本の指に入るトップクラスの大学の学生だ。私は「日本の大学で何をやりたいの?」と聞いたが、彼は「いや、とくに…」と素っ気ない。その場は、そこの研究室の学生全員が、初対面の私に対して、それぞれ自己紹介をするような場だったので、そして、彼が少し謙遜している風でもあったので、こちらも少しつっこんだ方がいいかなと思って、「いや、そうはいってもわざわざ日本に来ているんだから、何かあるでしょう、日本で関心あるものが」と言った。そしたら彼は「いや、それが本当にないんですよ…。単にここで暮らして、大学に通ってるだけです…」と。その後少し時間をかけて聞いたら、彼は自国の社会規範や共同体意識(集団主義)が好きでないらしく、そこから逃避しようと、とりあえず日本を選んで来たらしい。なので、とくに留学生としての気負いもなく、日本の大学生がしているような暮らしを普通にしているだけ。私も、学生が目の前でそういうことをいうのは新鮮だった(よって想像力が及ばなかった)だけで、それ自体はよくある話だし、日本の空気が合わないという理由で日本以外に住んでいる(元)日本人もたくさん知っている。そして、自分自身では考えたことがなかったが、そういう移動は「あり」だと思っている。というより、それが「あり」だと、彼と話すことで初めて自覚的に考えることができた(ということを、その場で彼にも伝えた)。
自分が生まれた国、住んでいる国が肌に合わなければ、居心地が悪ければ、別の国に行けばいい。それだけの話だ。その人が悪いわけでも、社会が悪いわけでもない。単に相性の話だ。そのことに特別な理由ない。そして学生という身分や留学という機会はそのために最大限利用した方がよい。このとき以来、私は「わざわざ外国から日本に来ている人は、日本に何か特別な関心や思い入れがあるはず」という思い込み(偏見と言ってもよい)に基づいた質問をしないようになった。そして教育者としての責務に抵触しない限りで、自分が面倒をみている留学生に対しても同様の態度で接するようになった。「ここが居心地がいいから住んでるだけで、とくに興味もやりたいこともないんですよ」と言いながら国境をこえて移動する人、そしてそれをごく自然に受け入れる社会、それこそが、今後理想とすべき人間と社会のあり方ではないか、とすら今では思っている。

英国への入国ビザについて

所属先でのレクチャーやら京都でのシンポジウム(ロンドンからSkypeで出演しました)やら引越やらが一段落しましたので、今日はイギリスへの入国ビザ申請について書きます。研究や仕事には関係ない話でスミマセン。
イギリスのビザ申請は、公開されている情報が少なく、謎に包まれているとの評判がありますが、実際、やってみるまで分からないことが多かったです。しかしそうした中、インターネット上の情報には大いに助けられました。正式な情報が少ない分、多くの方々が、手探りでやってみた成果をブログ等で報告・共有しています。それらへの恩返しの意味も込めて、かつ自分自身の備忘録を兼ねて、私も自分の経験を書こうと思います。ただしこの記述は、以下の三つの理由から今後の参考にならない可能性がありますので、ご注意下さい。またもしも誤った情報を含んでおりましたら、ぜひご指摘下さい。
・イギリスのビザ申請の制度は毎年のように変更されるので(この4月にもNHS(日本でいう国民健康保険)に関する大きな変更があったと、こちらに来てから知りました)
・私自身が経験していないこと(例えばAcademic Visitor Visaのような他の申請種別について)は分からないので
・私自身が経験したことでも、その意味や効果(やってよかったのかどうか、もっとよい方法はなかったのか)が後から振り返っても分からないものが多かったので
(1)ビザの種別について〜Academic Visitor VisaよりもTier 5を選んだ方がよい
まず今回私が申請・取得したビザはTier 5 (Temporary Workers) - Government Authorised Exchangeです。家族(妻と二人の子ども)は私の扶養家族(dependants)の資格で同種別のビザを取得しました。すなわち妻はTier 5 (Temporary Workers) Partner、子どもはTier 5 (Temporary Workers) Childになります。
一般に、サバティカル等で短期間(一年から二年程度)イギリスに滞在する日本人研究者はTier 5かAcademic Visitor Visaのどちらかを取ると言われています。本来、六ヶ月まではビザなし(観光目的)で滞在できるはずですが、研究者にはできるだけビザを取って入国させるよう英国政府から各機関へ通達が出ているらしいです。数年前にやはり一年間サバティカルでイギリスに行った勤務先の同僚は、後者を取得したそうです。今回の渡英にあたっては彼女から色々とアドバイスをもらったので、私も当初はAcademic Visitor Visaの取得を考えていました。しかし受入機関のイミグレーション担当者から、Academic Visitor Visaの有効期間は一年間(一年を超えられない)ということを聞いたために、その時点でTier 5を申請することに決めました。
というのも、日本で所得税源泉徴収が課されない「非居住者」となるためには、「一年以上」国外に滞在する必要がある(それも今回初めて知りました)わけですが、その「一年以上」が厳密に何日間を指すのか、よく分からなかったからです(実は今もよく分かっていない)。ですので安全のため、ビザは「一年プラス数日分」欲しかったのです。しかしこれがどうもAcademic Visitor Visaでは無理らしい。同僚がAcademic Visitor Visaで一年間行ったときには、帰路で時間稼ぎをして(わざと乗り継ぎを悪くして)日本への帰国日を遅らせたそうです。他にも、イギリスから上海などを経由して日本に帰ることで時間を稼いだ、というケースも聞きました。皆さん、税金を逃れるために必死ですね(笑)。まあイギリスでもカウンシルタックスを払うわけですから、日本の住民税を回避したいのは当然です。二つの国でダブルで住民税を払うことなどできません。私も一人(あるいは大人だけ)で行くのだったら、そうした時間稼ぎの「裏ワザ」が使えますが、今回は子どもが一緒なので、空港や乗り継ぎであまり無理はしたくないなあと思い、Academic Visitor Visaは(Tier 5よりも取得が楽だと聞いていたものの)早々と諦めました。
でも結果的に今回はTier 5で良かったと思っています。私が両者のどちらにするか迷っていたとき、受入機関のイミグレーション担当者は、Academic Visitor VisaはTier 5に比べて「いくぶんインフォーマル」である、そして私がTier 5を申請する方が「あなたに対して、私たちはいっそう大きな手助けができる」と言っていました。それはどういうことか、その時点では分からなかったのですが、今は分かります。Academic Visitor VisaよりもTier 5の方が「正攻法」であり、可能ならば(以下で述べるCoSがもらえるならば)こちらを選択した方がよい、ということです。
Tier 5を申請する場合、受入機関(私の場合はロンドン大学ゴールドスミス校)からCertificate of Sponsorship (CoS) という書類をもらいます。受入機関が(たとえ給与は支払わなくても)この人の「スポンサー」になるという証明書です。CoSには11桁の番号が付いていて、それが英国内務省のデータベースに(おそらく)バッチリ登録されているという、高度にフォーマルかつパワフルな文書です。それに対してAcademic Visitor Visaを申請する場合、受入機関のイミグレーション担当者からの(おそらく、その時点では非公式な)レター(どういうものか私は見ず終いでしたが)をエビデンスにして、各自がビザ申請を行うことになります。「インフォーマル」とはそういう意味だと思います。
CoSは、発行までに時間と手間がかかっても、それさえ手に入れれば、ビザを手に入れたと同然と言われています。CoSが出た時点で、国家機関(大学)が認定するGovernment Authorised Exchangeの有資格者という「お墨付き」をもらったことになるわけですから、当然です。また後述のように日本側のビザセンター窓口で提出する書類も、Academic Visitor Visaの場合よりも少なくて済むと思われます(推測ですが)。
また聞くところによると、Academic Visitor Visaを申請するためにもらうレターの効力は発行日から一ヶ月だそうです(他にも、戸籍謄本や住民票など、ビザセンターに提出するあらゆる書類の効力が一ヶ月という説が有力ですね)。ところがこれに対して、CoSの効力は三ヶ月あります。書類の中にきちんとexpiry dateとして発行日から三ヶ月後の日付が明記されています。三ヶ月あれば、万一、申請に手間取ったり、ミスして再申請せねばならないような場合でも、余裕があります。逆に「発行日から一ヶ月」というリミットは、少し油断すると(書類の準備に手間取ったり、肝心のレターの到着に時間がかかったりすると)過ぎてしまう気がして、心配です。
CoSは個別の番号によって(おそらく)英国内務省のデータベースと紐付いている書類なので、レターと違い、それ自体がオリジナルである必要がないことも、メリットです。受入機関のイミグレーション担当者からメールの添付書類として届くPDF書類をそのままプリントアウトして、ビザセンターに持っていけばよいだけです。なお私は届いたCoSの内容に一部誤記があり、それを指摘して即日再発行してもらいました。レター(の再発行)であれば、こう簡単にはいかないと思います。
そして何よりも(上述のように)一年間の滞在期間の制限のあるAcademic Visitor Visaよりも、Tier 5の方が、出入国の旅程を組む上ではるかに融通が利くと思われます。Tier 5の場合は(通常の労働ビザと同様に)所属機関での活動期間の前後に一週間ずつくらい、滞在が認められます。今回の私の場合も(実際に必要なのは一年プラス数日ですが)一年プラス二週間の滞在許可が出ています。所属機関での活動期間は、受入手続のごく初期の段階でフィックスしているはずなので(私の場合も、九月にいただいた先方の学長からのレターにすでに日付が記載されていました)入国日や帰国日がそれにしばられるとなると、後々色々な問題が生じかねません(入国したい日にどうしても航空券が手に入らない、一年以上の国外滞在期間が満たせない、など)。
(2)ビザ関連手続きの時期について〜入国三ヶ月前にやっておくこと、三ヶ月を切ってからやること
イギリスの場合、入国予定日の三ヶ月前からしかビザの申請ができません。しかもその事実自体が、どこにも明記されていません。経験者から情報があったので、今回(今年)もそうかもと予想はしていましたが、受入大学のイミグレーション担当者から(しかもけっこう後になって)説明されるまで、確かな情報はありませんでした。
私の場合は、以下のようなスケジュールでした。
・受入大学のイミグレーション担当者にご挨拶を兼ねて連絡(10月下旬)
・Tier 5(Academic Visitor Visaではなく)での申請(すなわちCoSの発行)を希望する旨を伝える(12月上旬)
・CoSが届く(1月下旬)
・UK Visa & Immigrationのサイトでオンライン申請(手数料支払、ビザセンター訪問のアポイントメント)(1月下旬)
・ビザセンター(大阪)に行って手続きをして、パスポートを預ける(2月上旬)
・ビザが貼付されたパスポートが届く(2月中旬)
・日本出国およびイギリス入国(3月末)
ビザが届いてから出国まで一ヶ月半と、終わりがきわめて慌ただしかったです。三ヶ月を切ってからしか動けないとなると、どんなに頑張ったとしても、結局こんな感じでバタバタするのは仕方ないでしょう。
ポイントはCoSをできるだけ早くもらうことです。理想は入国まで三ヶ月を切ったらすぐにもらうことです。私の場合どういうわけか、イミグレーション担当者に「三月末に入国するあなたに、CoSを一月上旬に出すのは早すぎる。一月末に出します」と言われたので、それに従いましたが、一月初めにもらえていたら後のスケジュールがもう少し楽だったかなと思います。その辺も何が正しいのかよく分かりません。
(3)ビザ申請のための必要書類について〜銀行口座の残高証明は、いつの時点からの「過去90日間」かに注意
英国ビザ申請の必要書類をインターネットで調べると、大学(しかも学部時代から!)の成績証明書や学位証明書(およびそれらの英訳)など、膨大な書類が挙げられていて、正直準備を開始する前からゲンナリしました。一応ほぼすべて揃えましたが。大学院の成績証明書等は、先々のために、英語版を持っておいてもいいかなと思ったので、もしも今回使わなくても損はないだろうと思って集めました。でも結局それらは一つも必要なかったです。
一番困ったのは、Tier 5はかりにも就労ビザなので、英語力証明が必要という説を聞いたときです。
現在、英国ビザのための英語力証明試験はIELTSに一本化されており(2014年からTOEFLTOEICは使えなくなった)これを受けるべきかどうか、悩みました。必要なスコアはそれほど高くないらしいのですが、勉強する時間がないし、そもそも試験(月に二度程度やっているらしい)を受ける時間がありません。
でも結果的にTier 5の取得には、英語力証明は不要でした。よくよく考えれば当たり前かもしれません。こちらはアカデミックビジターであり、研究計画や履歴書もすべて英語で書いて提出しているわけですから、その時点で就労のための基本的英語能力はクリアーしていると見なされているのかもしれません。これもよく分かりません。
[CoS発行時に必要だった書類(受入大学のイミグレーション担当者に送ったもの)]
・受入機関指定のアプリケーションフォーム
・パスポートのスキャンデータ(家族全員分)
・過去90日の銀行口座の残高証明書のスキャンデータ(一日たりとも規定の金額を下回っていないことを証明する。金額は年によって変わるし、扶養家族の人数によっても変わる)
・CV
・研究計画書(その要約がCoSに記載される)
[ビザ申請時に必要だった書類(日本側のビザセンター窓口で提出したもの)]
・UK Visa & Immigrationのサイトでのオンライン申請書類のプリントアウト(昨年まではAppendix書類は紙媒体で提出したようですが、今年はすべてオンラインで入力・提出できました)
・CoS(メールに添付されてきたPDFファイルのプリントアウト)
・過去90日の銀行口座の残高証明書(以上三点は私自身の申請用)
・家族全員分の戸籍謄本とその英訳
・家族全員分の住民票とその英訳(以上二点は家族の申請用。主たる申請者である私との扶養関係を証明するために必要)。
なお申請は四人分ですが、書類の提出は一部ずつ(とそのコピー)で済みました。しかもオリジナルの書類はパスポート返却時に戻ってきます(オリジナルとの照合後、コピーが正本として保管されるのでしょう)。
またもっとも注意が必要だったのは、銀行の残高証明書でした。
私の場合、オンラインでの申請を完了(その時にビザ発行の費用をカードで支払い、ビザセンターのアポイントメントを取る)したのが一月末で、大阪のビザセンターの窓口に行ったのが二月上旬でした。その間が一週間くらいありましたが、折悪しく、一月末の時点では「過去90日間に一度も規定の金額を下回っていない」ことが証明できたのに、二月上旬の時点では証明期間に数日間の空白ができてしまいました。私が証明に使った銀行口座は、残高証明書が一ヶ月に一度、発行される仕組みなので、こういうことがおきやすいのです。しかも、オンラインでの申請(完了)日とビザセンターでの手続き日のどちらが(そこから遡って90日間の残高を証明すべき)「正規の申請日」なのか、いくら調べても分かりません(割高な情報料と国際電話料金を払って公式の質問窓口に電話しましたが、よく分かりませんでした)。
仕方がないので念のため、ビザセンターでの手続き日から遡って90日を満たせるように、空白の数日間を対象に一日ごとの残高証明書を発行してもらいました(幸い二日分で済みました)。
これから申請される方は、銀行口座の残高(必要となる金額はさほど大きなものではありません)よりも「過去90日間」という点に注意を払った方がいいと思います。CoSの発行、UK Visa & Immigrationサイトでのオンライン申請、ビザセンターでの手続きと、三つの時点でその都度「過去90日間」の残高証明が必要です(少なくともそう考えるのが万全です)。とくに私のように、月に一度残高証明書が発行される銀行(最近はけっこう多いように思いますが)を使っている場合には「いつからいつまでの残高を証明する書類が、いつ手元に届くのか」を常に念頭に置きながら、手続きを進めなくてはなりません。そして空白期間が生じてしまった場合には、一日ごとの残高証明を日数分用意するという(私のとった)方法で切り抜けます。
なお私が使っている銀行は日本語でも英語でも残高証明書の発行が可能なので、日本語から英語に切り替える手続きを10月にしました。少し早いかなと思ってやったのですが、ビザの申請に使った残高証明書は三ヶ月分(11月から1月)プラス二日でしたので、結果的にはギリギリでした。英国のビザ申請を予定している場合は、早めに(他の準備に先んじて)この切り替え作業をしておくことをオススメします。英国のビザ申請では、当然、日本語の証明書にはすべて英訳(およびその英訳者の身元照会先)を付けなくてはなりません。銀行の残高証明書を英語で出してもらえば、手間と費用が大いに軽減されます。
なお今回私がお金を払って翻訳をしたのは、戸籍謄本と住民票の二点だけでした。翻訳はここにお願いしました。速いし安いし対応も丁寧でしたのでオススメです。他の会社では「このところ英国ビザ申請対応が立て込んできたので、10日くらいかかる」と言われましたが、ここでは「1日でできます」と即答されました。しかもすべてあわせて13,000円くらいと格安でしたし、サイトでは発行できないと断り書きが書いてあった領収書も発行してもらえました。次回も同様な機会があれば、ここにお願いすると思います。
(4)ビザ申請のための料金について
オンラインでの申請時に一人約37,000円、ビザセンターでの手続き時に「優先サービス」(標準よりも短期間で発行される)の代金として一人約18,000円払いました。しかしこれだけで四人で20万円以上かかってますね(今次の渡英のために一体いくらかかったのか、それを考えるとイヤになるので、努めて計算しないようにしているのですが)。優先サービスは要らない(お金がもったいない)気もしましたが、一日でも早くビザを受け取り、一日でも早く(すっきりした気分で)渡航準備を進めたかったので、申し込みました。
(5)その他
イギリスに限ったことではありませんが、ビザ申請の期間は、パスポートを預けることになります。その時期に海外出張などを入れることは当然不可能です。その他、国際免許証の発行やIELTSの受験等、パスポートが必要となる国内の案件も(出国間際には)多々ありますので、スケジュール管理は入念に。
オンライン申請の際、イギリスにおける連絡先(住所と電話番号)を入力しなくてはなりません。ホテル等の連絡先でもかまわないようです。またそれに関する証明が要求されることは最後までありませんでした。
航空機の手配の必要性に関しては「微妙」です。イギリスのビザ申請については、「ビザ申請時までに航空機を確保しておかねばならない(ビザセンターでチケットの提示が必要になる)」という説と「ビザを取得するまで航空機を予約してはいけない」という、それに真っ向から衝突する説が共存しています。本当に困ったものです(笑)。しかしオンライン申請では入国予定日(date of planned arrival in the UK)を入力しなくてはなりません。航空機を確保せずにその欄に日付を入力するのはかなり勇気が要ることです。
私の場合、ビザセンターの手続きに行った時点では、航空機を予約しているものの支払いはしていない状態でした。しかし上記の二つの説が並立していることは知っていた(そして対応に困っていた)ので、ビザセンターでのやり取りには多少警戒していました。ビザセンターでは受付の方が、まず初めに(私が持参したオンライン申請書類のプリントアウトの入国予定日欄を見て)「航空機チケットは取りましたか」と聞いてきました。それに続いて「はい、便は予約しました」「支払いはしていませんか」「いいえしていません、予約だけです」「そうですか」という「微妙」なやり取りがありました。もしもそこで「支払いも済んでいます」と答えたら、どうなっていたか…。分かりません。まさかそれだけで申請が却下されることはないとは思いますが、航空機のチケットを見せろ、とか言われていたかもしれませんね(一応、予約確認書を持参してはいましたが)。まあとにかく今回のビザ申請にあたっては、そうしたことが多すぎました。
次回は住居のこと、引越のこと、子どもの学校のことなどを書こうかと思っています。が、いつになることやら。
[2015.8.8追記]Academic Visitor VisaでSOASに滞在している日本人の話では、Academic Visitor Visaは区分としてはTier 2だそうです。多分ここにあるTier 2 (General) Sponsored Skilled Workersのことだと推測します。

ロンドンに来ています

ロンドン大学ゴールドスミス校の客員研究フェローとして、一年間の学外研究に従事するため、三月末から家族四人でロンドンに来ています。こちらに到着してからすでに二週間が経過しましたが、家族共々まったくもって元気で過ごしていますので、ご心配なきよう。これまでは住環境の構築や日々の食料の確保など、生活の基盤を確立することで必死でしたが、明日の月曜日からは小学校も始まり、昼間は子どもからも手が離れますので(イギリスの小学校は親による送迎が必須ですが)少しは時間の余裕もできるだろうと思っています。
ところで今回の渡航については、仕事の必要上から(主に日本での仕事をお断りするために)お伝えしてきた方々を除き、大半の方々にご報告が遅れてしまいました。というより、ほとんど何も言わずに出国してしまいました。ということもあり、ここにあらためてご報告いたします。
ご報告が遅れた最大の原因は、ビザの取得が(当初予想以上に)遅くなったためです。イギリスは入国三ヶ月前からしかビザ申請ができないので(という情報も多分どこにも明記されてはいませんが)それなりに前もって準備を尽くして申請したつもりのわれわれも、結局ビザを入手できたのは二月半ばでした。学外研究の行き先は夏頃には決まっていましたが、それから半年近く、本当に行けるかどうか分からない「宙ぶらりん」の気分で過ごしたことになります。その間は、いつどこで何をしているときでも頭の八割くらいはビザ申請や渡航準備のことで占められていたので、人の話を聞いているときにも、だいぶ上の空だったかも知れません。それによって何かご迷惑をおかけしていましたら、お許し下さい。よもやビザが取れないことは無いだろうと信じてはいましたが(周りも皆、心配ないと励ましてくれましたが)、やはり申請(しかも不慣れな)する以上、最後まで何があるか分かりませんし、またビザが取れなければ計画自体を変更せざるをえませんので(大人だけなら観光ビザで半年間滞在、とか簡単にできそうですが、うちは子どもを一年間イギリスで学校に通わせる予定で準備していましたので)ビザが入手できるまでは、四月からの予定を人様にお伝えする気分にはなれませんでした。実際、出国日一つをとっても、どうなるか分からないわけですから。おまけに(また次回以降書きますが)イギリスのビザ申請は本当に謎すぎるんですよ! 通常は二月といえば、次年度(四月以降)の予定がかなりの部分確定している時期ですよね。その時期まで次年度の予定が(というか日本にいるかいないかも)確定しないというのは(私よりも妻や子どもにとって)相当ストレスフルでした。そして逆に──必然的にそうなるわけですが──ビザの入手から出国までの一ヶ月半は、まさに怒濤の日々でした。いろんな物事を投げ出して、ほとんど夜逃げ同然で、こちらに来てしまいました。いやホント、よく出国できたなと。
私も妻も、これまで長期の外国滞在や留学経験もなく、入国のためのビザを取るのも初めて。日本の住民票を抜くのも初めて。子どもたちに至っては、そもそも外国に行くのが初めて。飛行機もわずか二度目。その四人が縁もゆかりもない(ことはないにせよ)異国に生活の拠点を移すなんて、どう考えても、無茶な計画です。しかもメチャクチャ物価が高いイギリスの首都、家賃もメチャクチャ高いロンドン。お金もいくらかかるか分かりません(この不安は現在進行形…)。私の職場の場合、学外研究は日本国内にいてもできるわけですから、おとなしく日本にいた方がよいかも、と(一瞬ですが)考えました。ビザの取得、住居や学校の選定、荷物の移動など、これから味わうだろう苦労は、われわれの人生にとっていわば「余分」な苦労、普通にこのまま日本で暮らしていればおそらく死ぬまで経験することがない苦労だろう、とも思いました。けれども、逆に考えれば、この歳になっても、自分たちが知らない世界がまだまだたくさん残っている、それは実に素晴らしいことではないか。どうせこのまま日本にいても、この先、大した変化や驚きもない無難な人生を過ごして老いていくだけ。だったら、たとえ苦労だとしても、それを知らずに死ぬよりは知ってから死んでやろう、何でも経験してやろう、学んでやろう、という意見で、妻と完全に一致しました(この点がずれていたら、多分頓挫してましたね)。今から思えば笑ってしまうくらい大袈裟な話ですが、われわれにとってはそれくらいの覚悟を伴った決断だったのです。
そして、そういうのはイヤだなーと常々思いつつも、不惑を過ぎてから、私の仕事や人生も安定路線に入り、先が見えてきた気がしています(これはグチですね、スミマセン)。すなわち明らかに生活から「冒険」が足りなくなっています。そしてその感覚は妻も同様だったようです。この辺りで人生にドキドキワクワク感を回復し、また子どもたち(親もですが)の甘っちょろい人生に渇!を入れるため、ここは一つ、知らない土地に長旅に出るしかない! 「苦労を買ってでもする」うちは「若い」と言っていいのだ! ついでに一家まとめて断捨離だ! という程度の安直で発作的な思考回路の上で動いていたことも事実です。
また私自身は、しがらみが雪だるま式に膨らんできた人生に、この辺りで一旦「区切り」を入れたかった、ということもあります。今回の渡航に際して一番辛かったのは、講義や講演、出版など、日本でのお仕事を幾つもお断りせざるをえなかったことです。しかしそういう方々に事情をお伝えしたところ、その多くからとても温かい励ましやお心遣いのお言葉をいただきました。そしてそれはお仕事以外のことでも同様でした。よく考えれば、私自身も、仕事でも遊びでも、自分が心から信頼している方には、たとえ一度や二度、お断りされたとしても、再度お声掛けします。今回はそうしたやり取りを通じて、自分にとって本当に大切な人々がどこにいるのか、分かったような気がしました。これは準備段階から予想外の収穫でした(もちろん一回限りでしかありえないお話も幾つかお断りしてしまい、タイミングの問題とはいえ、申し訳ありませんでした)。他にも、職場や地域や親族関係の中で、自分がいかに多くの人々に支えられて生きているかが、あらためてよく分かりました。そしてそれは、私だけでなく、子どもも含めて家族全員が感じています。一年間のブランクは、戻ってからの人間関係にもかえってよい効果をもたらすのではないか、と(例によって)楽観視しています。
(現在のリトミック講師の仕事を思い切って辞めて渡航するはずだった妻も、上司から破格のお餞別までいただき、戻ったら英語コースを開講して担当するという過大なミッションをいただいてしまった様子。かえって心配です。)
それと諸先輩からは、大学人(に限らず、かも知れませんが)は日本にいたらとても家族でゆっくり過ごす時間は持てないから、ぜひとも家族を連れて日本を離れる機会を持ちなさい、というありがたいお言葉を何度もいただいてきました。私はこの言葉をけっこう真に受けてしまい、これまで父親として子どもに何もしてあげられなかった(というより、ほとんど家にいない、と常に責められている)ので、せめてこの一年間はじっくり子どもと向き合う時間にしたい、と考えました。いわば「失われた家族の絆」(笑)を回復するための一年にしよう、と。実際、日本では、私のことをさて措いても、妻と子どもたちだって相当忙しなくギスギスした毎日を送っているわけですから、日本を離れることは、私以外の家族同士の関係にとっても絶対にいいはず、と(勝手に)思っています。とか言いながら、後になって「またお父さんが私(たち)の人生をメチャクチャにした」とか言われるかも知れませんが、そのときはそのときに謝ればいいとして。
何かこんなことばかり書いていたら、どういう経緯や動機で私がロンドン(イギリス)に来たのか、ここで何をやろうとしているのか、という話にはなかなか行き着きそうにありませんね。ですが次回は引き続いて、きわめて不親切で謎が多いと言われるイギリスのビザ申請について書こうと思います。申請にあたり多くの方々に助言や情報をいただきましたので、その御礼と御報告も兼ねて。また自分用の防備録も兼ねて。肝心のイギリスでの研究活動について書くのは、当分先になりそうです(笑)。

新年のご挨拶

一年に一度更新するかどうかのブログに、時節のご挨拶も何もあったものではないですが、まあこのタイミングですので。皆様、本年もよろしくお願いします。
昨年は引き続き学内の役職に就き日々忙殺されていたことに加え、すべての研究発表を国外(イギリス、カナダ、ドイツ、ブルガリア、フランス)で行ったせいもあって(ちなみに内容は、最初の一回が音楽関係で、残りの四回はゲーム関係)、日本国内の学会や研究会にほとんど顔を出せませんでした。2014年は合計すると一ヶ月以上、日本を離れていた計算になります。そうなると国内にいる間も仕事がいつも以上に山積し、あまり外に出られませんでした。ご無沙汰してしまっている方々が多くおられますが、非礼をばお許し下さい。
その代わりと言っては何ですが(実際に「引きこもり」の最大の理由となっていた)本がもうすぐ出ます。絶対音楽の美学と分裂する〈ドイツ〉』(青弓社。私の四冊目の単著で、シリーズ「〈音楽の国ドイツ〉の系譜学」の最終巻となる第三巻です。

奥付の発行日は1月15日です。書店にもこの連休明けから並び始めると聞いています(Amazonでは25日となっていますが、これは当初の発行予定日)。私のところには先週末に見本が届きました。

ようやくそろった!とさっそくシリーズ全三冊を並べてみる。ダークな階調の赤、青、緑。装丁は『ヴァーグナーの「ドイツ」』以来、お世話になっている神田昇和さん。色の選択もお見事です。

2013年2月に第一巻を刊行したときに「一年以内で三巻完結させる」(不都合なエビデンスここに)と息巻いていたにもかかわらず、結局こんなに遅れてしまい、出版社と読者の皆様、他にも幾つかの方面にはたいへんご心配とご迷惑をおかけしました。博士論文を本にするお約束を交わしたのが2005年のことでしたから、はや十年が経ってしまいました。何より私の怠慢のせいではありますが、企画が当初予定よりもふくらんだことも遅延の原因でした。主題の性格上、議論を圧縮・単純化して、分かりやすい「お話=ストーリー」を提示する気にはどうしてもなれなかったのです(その辺りの思いは「あとがき」にも書きましたが)。正直、博士論文を元にして単著が四冊も書けるとは(というより、書くはめになるとは)自分でも思いませんでした。ですが、出版不況が叫ばれるこのご時世で、こうして書きたいことを書きたいだけ書かせていただけたことは、一研究者として身に余る幸せです。
もちろん三分冊にしたことにはメリットもあり、読者の皆さんに興味のある巻だけを読んで(買って)もらえるのはその一つかと想像します。前巻は「民謡」をタイトルに入れましたが、今回その位置にあるのは「絶対音楽」です。「絶対音楽」は言葉としてはそれなりに知られていても、その内実は多くの(日本の)読者にとって、けっこう謎に包まれていると思うので、この本が導入の手がかりになれば嬉しいです(この語を題名に含む日本語の類書は、これこれくらいでしょうか)。タイトルについては実は悩みました。十九世紀ドイツ音楽思想(とくに美学と歴史叙述)を包括的に論じているので、「絶対音楽」の一語でその内容を代表させると、時代的にも理論的にも「矮小化」になってしまうんですよね。でも偏りを承知で、一箇所に「重心」を置くなら、やはりこの語しかないだろうと思いました。実際には、むしろ「絶対音楽の時代としての十九世紀ドイツ」というこれまでの標準的歴史観を見直すために書いた本です。
対象となる人物や作品(固有名詞)は、全三巻のうちでもっとも「ポピュラー」だと思います。ベートーヴェンシューマンロッシーニブラームスといった巨匠達だけでなく、フィヒテシェリング、ホフマン、ヘーゲルといった哲学者・思想家達にもバンバン「特攻」してます。その分、本書が提示する議論や解釈には異論や批判の余地も大きいと思われます。怖いですが、避けられないことなので、読者の声をお待ちするしかありません。
とにもかくにも「人生の借金」(実際この十年間、わが家ではこの仕事がそう呼ばれてきました)をようやく返済し終わり、明日(今年)からようやく「前向き」に生きられそうです。これからやりたいこと、書きたいことが山積みです。
この本について、さる敬愛するセンパイから「吉田君が音楽学(会)に提出する卒業論文だね」と言われ、なるほどそう見えるだろうな、と思いました。でも実は、音楽関係の本(音楽史ではありませんが)を少なくともあと一冊は出す予定でおります。「足を洗う」のはそれを出してからになるかと思います(笑)。
ちなみにこの十年の間に、私は研究室の引越を二度、自宅の引越を二度、行ってきました。密かに恐れていた資料の散失も特になく、理想的な執筆環境をキープしながら最後までこぎ着けることができて、本当にホッとしています。あとはもう本もコピーも全部無くなってもいいや、というか欲しい人がいたらあげます(笑)というのは冗談にせよ、これを区切りとして、だいぶ大がかりに身辺(研究環境)の整理と再構築を始めていることは確かです。研究室にある『ニューグローブ音楽事典』全20冊を書架の棚から取り出して、書架の上に天井まで積み上げて、空いたスペースにアフォーダンスやインターフェース関連の本を詰め込んだり。この十年の間に、私の関心も持ち物も随分と変わってしまったことを実感しながら。
この十年間、色々とお誘いをいただきながら、新たな(単著の)出版企画を立てることを自分に禁じてきましたので、ようやくそれが「解禁」になったことが何よりも大きな変化です。エフォートを一点に集中されることができず、絶えず引き裂かれてきた、長きにわたる「二重生活」からついに脱しましたので、今後は「一点集中」「有言即実行」「言い逃れ無用」の精神で頑張っていきたいです。そんなわけで、これまで保留にしていたお話も、これから順次「リスタート」していきたいと思いますので、お心当たりのある方々はよろしくお願いします。まあまた同じことを繰り返して、「人生の借金」を背負わぬよう、しっかりと研究・執筆の計画を立ててからご相談・ご連絡せねばと肝に銘じていますが。
いずれにせよ「次の一歩」が、自分の今後の研究人生を左右する、とても大事なものになる気がしていますので、焦らず慌てず、じっくり取り組みたいと思います。自分では信仰していないとはいえ、世に言う「厄年」も明けた、2015年です。

表象文化論学会第9回大会

今週末に駒場で開催される表象文化論学会第9回大会の「接触表象文化論──直接性の表象とモダニティ」というシンポジウムに(非会員ですが)登壇します。同大会のポスターはコチラです。相変わらずカッコイイですね。あっ、今よく見たら「フォントが一番大きいセッション」じゃないですか! お声掛けいただき、誠にありがとうございました。
感性学における「接触」、というのが当初の役回り(お題)だったのですが、「接触」を外側から眺める視点も必要だろう(何でもかんでも「接触=触覚に回収」する傾向から距離を取るためにも)と考えたこと、また非−接触型知覚の代表と言える聴覚の「近代的意義」を、このシンポジウムの主旨と突き合わせて(対決させて)みたかったこともあり、「接触から震動へ──〈響き〉としての内面性の誕生」というテーマでやらせていただくことにしました。「接触」そのものを深める視点は出せないかもしれませんが、それは他のパネリストの皆さんにお任せするとして。「触覚(および視覚)=接触パラダイムと「聴覚=震動」パラダイムを対決させ、その両者の緊張関係の中で「近代」の誕生を把捉する、という以前から私が関心を寄せてきたトピックを、久しぶりに正面から展開する機会が持てて嬉しいです。もちろん実際にはこれら二つのパラダイムは折り重なる部分もあり(聴覚を「接触」として理解・説明することも可能)その辺りが話のオチとなる予定。音響物理学と聴覚生理学がいつどこまで足並みを揃え、いつからどのように袂を分かったのか、という問題もこれに絡んできます。
表象文化論学会での発表は、2005年の設立準備大会のときにやはりシンポジウムに呼ばれたのが最初にして最後であり、その後「入る、入る」と言いながら、一度も会費を払わないまま今日に至っております。関係各位には誠に申し訳ございません。近々(諸々身辺を整理しつつ)必ずや入会いたします。
今年は(ここ数年ずっとそんな調子ですが)「呼ばれたところに出掛けていく」のが精一杯で、自分が会員である学会で自発的に発表のエントリーをするには、到底及びません。ホント、情けないことです。現在の学内的肩書きが外れたら、また「現役復帰」する予定です。また今年の夏以降の学会発表や講演は、カナダ、ドイツ、ブルガリア、フランスと、すべて日本以外となります。また(余裕があれば)ここでもご案内します。というわけで、先に謝っておくと、九州に行けなかったらスミマセン(たぶん行けません)。
例のシリーズ本の第三巻(最終巻)も、すでに一旦私の手を離れたところで作業中ですので、これも遠からずお見せできるかと思います。
今年は「攻めの厄年」をモットーに頑張ります。
[2014.7.10追記]
当日配布したハンドアウト接触から震動へ──〈響き〉としての内面性の誕生」をココにアップしました。当日はたいへん盛況で、私としてもたくさんの示唆・刺激を得ました。ありがとうございました。

〈音楽の国ドイツ〉の系譜学 第二巻刊行

前略。夏もそろそろ終わりですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
久々すぎて、ブログの書き方(文体)も忘れかけていますが、新著が出るのを機に近況報告を兼ねて書きます。
もうすぐ下記の本が出ます。

奥付は9月19日。うちの八歳児の誕生日とわずか一日違いです。実は彼女は八歳にして最近「奥付マニア」と化していて、自分の誕生日と同じ日の奥付に出会うことを楽しみに書店や図書館で背表紙をめくっているのですが、その意味で実に惜しかった。実は最初にAmazon等に告知が出た時点では、刊行予定日は8月31日でした。しかしこれが(主に8月初旬に私が集中講義の出張やらで多忙だったため)9月15日に延びたのです。この時点で、彼女はがぜん勢い付き「私の誕生日にしてー! そうお願いして!」というので、「いやそんなことできるわけないだろう、そもそも刊行を遅らせている最大の原因はお父さんがこうして××しているからだというのに、どの口からそんなことを言えるのか」と返しておきました。しかしながら、さらにこれが(主に三校で私が諸々面倒な注文を付けてしまったため。そうです、今回は三校までやったのです)9月19日になったわけです。この日付が出た時点で八歳児は、僅差による感激と失意を同時に受け入れて、「ああもおー、一日違いか!」と叫んでいましたが、私としては、こうしたインターネット上の情報と本の奥付は必ずしも同一ではないので現物を見るまで分からないよ、と言っていました(これは実際そうです)。で、本日見本が届いて確認したら、やはり19日でした。
この本の内容紹介文はサイトによって(おそらくは長さが個々に制約されているため)ヴァージョンがバラバラなので、表紙に掲載されている正規の内容紹介文を以下に記載します。

「借用と模倣」を得意とする国民という
ドイツ人のアイデンティティは、
十八世紀に、イタリアとフランスの音楽趣味を折衷する
「混合趣味」の音楽を全盛期に導いた。
だが十九世紀には、混合趣味は否定され、
「固有」で「根源的」な〈ドイツ音楽〉が希求されるようになる。
この〈ドイツ的なもの〉の構造転換をもたらしたものこそ、
〈フォルク〉の歌謡としての「民謡」の発見だった。
民謡がドイツ民族の精神的基盤となるまでの
ドラスティックな歴史のうねりを追う。

目次は出版社サイトでもご覧いただけますが、音楽の国民様式論争(イタリア音楽とフランス音楽の優劣論争)のドイツでの受容(ドイツ人の音楽家や理論家がそこでどのようなアイデンティティを育んだか)から、ドイツでの「混合趣味」の展開(理論と実践の両面)、混合趣味の精神を引き継ぐものとしての古典派の成立(普遍性とドイツ性の癒着)、混合趣味(論)の衰退とその背景の検討、その一つの(かつ最大の)要因(と推定されるもの)としての民謡の発見、という流れになっております。
私としては今回、一番本にする価値があると思っていたヘルダーの民謡論の部分も、調べたこと、考えたことをすべて(削除や圧縮せずに)「書ききる」ことができたので本望でした。これまで複数の論文では断片的にスポットを当てて書いてきましたが、やはりまとめて読めるのは読者にとって(冗長というデメリット以上に)簡便という大きなメリットがあるはず。ただしこれをヘルダーについての「モノグラフ」として出すには中途半端です(もっと当たらなくてはならない二次文献等がある)ので、今回のようなパッケージングが最善(というか私ができる精一杯)かなと。これを機に、ヘルダーの民謡論を含め、十八世紀半ば、初期ロマン主義の芸術思想や美学(この時代は英独仏の思想圏がかなりクロスしていますし、それが面白いところでもありますので、あえて「ドイツの」とは言わず)にもっと関心が集まれば、私としても嬉しいです。
また企画の段階では全三巻の分量をある程度揃えていたはずのシリーズ本ですが、第二巻の分量がかなり第一巻を超過してしまいまして、悩んでいたところ、編集者の方が「大丈夫です。紙の厚さを変える手があります」と。「なるほど!」と思いました。実際、本日見本が届いてまず確認したのが厚さでした(笑)。これはゲラの段階では分かりませんからね。で、ご覧の通り、

左の第一巻は228ページで、右の第二巻は318ページと、ほぼ1.4倍のページ数なのに、厚さはほとんど変わらず! さすがプロの仕事! それでいて値段は同じ! つまりお買い得! あれっ、ということは、出版社の側は思わぬ負担増ですね…。スミマセン。いつもいつもご迷惑をおかけしてしまいます。ただまあ、シリーズ物の「外見(そとみ)」を揃えるのに一般にそういう「裏技」があるということは、覚えておいて損は無いかと思います。逆に言えば、本は(その質だけでなく「量」も)「見かけ」に騙されてはいけない、ということでもあります。ちなみに左にあるのはたまたまテーブルの上にあった阿闍梨餅の箱(五個入り)です。先ほど四つ食べたので、もう軽すぎてブックエンドの代わりは果たせません。
さあこれから先は第三巻の刊行、すなわちシリーズの完結を目指して、頑張ります(そんなわけで、昨年から今年にかけては重度の「引き籠もり」生活が続いており、諸方面での非礼をお詫びいたします)。
最後に、ブログ更新が滞っていたこの間に刊行された書籍を幾つかご案内しておきます。

記号学会の機関誌で、2011年に開催した大会の報告集。これも出版社のサイトに目次がありますが、私は二つ論文を寄稿しております。
ビデオゲーム記号論的分析──〈スクリーンの二重化〉をめぐって」は大会で発表した原稿を論文化したもので、モリスの「記号過程の三分類」をバーチャル空間にあてはめる試みを行っています(ちなみにこの論文に対する批判的応答が松永伸司さんのサイト9bitにあります)。論じ残した「語用論的次元」、そして発表の時点では安直に語用的次元と結び付けていたものの、実証性が乏しいので論文では取り下げた「酔い」の問題も含めて、この線ではもう少しいけるな、と思っており、ヴァーチャルリアリティやマン・マシン・インターフェイス(MMI)の理論を現在少しずつ勉強中です。
「ゲーム研究のこれまでとこれから──感性学者の視点から」は書き下ろし。「ゲーム研究の歴史」を概観する日本語での最初(唯一)のテキスト(英語ではけっこうあるのですが)を意図して書いたものであると同時に、私が構想する「感性学」の現時点でのスケッチにもなっています。
ところで「ゲームについて日本語で書かれた学術的論集」というのは、この本が初めてだと思います。ゲーム研究は本当に様々なアプローチが可能ですから、記号学会が先鞭を付けたこの試みを、他の諸学会や学術機関もぜひ継続してもらいたいですね。広く、長く読まれていくであろうこの本に、非会員でありながら書かせていただいたことを光栄に思い、また感謝します。
子ども白書2013: 「子どもを大切にする国」をめざして

子ども白書2013: 「子どもを大切にする国」をめざして

「日本子どもを守る会」が(出版社を変えながらも)49年間、毎年出している白書。私は「「ゲーミフィケーション」の時代」という題目で、ゲームの項目を執筆しました。教育や子どもについての分野で文章を書くのは不慣れ(初めてかも)ですが、ゲーム研究をする際にはそれは避けて通れませんし、「エステティックス(感性学)はもっと子どもや教育の分野に取り組んでよい(これまでももっとそうするべきだった)」というのが私のかねてからの考えでもありますので、少しでもそれに貢献できればと思って寄稿しました。主に教育関係者や一般読者(とくに比較的高年齢層)に向けて書いたものですので、このブログを読まれている方々が読んでも内容的には「今ひとつ」かもしれませんが、機会がありましたらどうぞ。
白書という性格上、ニュートラルな記述を心掛けたのですが、最後の最後(校正段階)で(字数がもう少し入ると聞いて)血迷って、「友達とのネットワーク作り」は「ゲームの一部」(あるいはその前提)であるかもしれないが「ゲームそのもの」ではない、ゲームは「日常の連続」ではありえず、日常を「忘却・リセット」するものでなければならない、などと、著者自身の日常(主に、どうしてお父さんはゲームを研究しているのに子どもにDSを買ってくれないのか、という問題をめぐる八歳児との議論)を反映した特殊な主張が書き込まれております。
そしてその過程で、美学=感性学に立脚するゲーム研究者としては、きちんと「遊びの哲学」をやらなくてはいけないな、と痛感した次第です。この場合の「やる」というのは、細々と研究する──そうであれば十分すぎるくらいの蓄積があります──だけでなく、過去の蓄積を活かして今日的諸問題に対応・応答する(できれば大勢で)という意味です。そして「遊びの哲学」というのも、やはりエステティックスと子ども・教育というテーマが交差するところですよね。ゲーム研究もそろそろ(というかすっかり)「第二世代」に突入していますので、単に「ゲームを研究しています」という新奇性だけではやっていくことができず、個々の研究者が独特の価値観と視座を持って、それぞれのテーマを掘り下げるような段階に移らなくてはならないな、とここしばらく考えています。そして私の場合、「遊び」はその一つかなと思っています。振り返れば私は、ゲーミフィケーションやゲームの教育利用などと聞くと(もちろんその必然性と意義は十分理解しているつもりですが)どうしても「冷めて」しまう体質で、これまで自分ではそれをまさに皮膚感覚で(まさに体質として)処理してきたのですが、「遊び」の哲学を入れることで、もう少し理論化・言語化できるかなと。まあそんなことも。

新年度に向けての各種ご報告

私こと、この四月から副研究科長という役職を拝命いたしまして、これからの二年間の任期中は連日、会議に次ぐ会議、書類作りに次ぐ書類作りの日々になりそうです。研究会やイベントに顔を出す機会が(元々出不精なわけですが、これまで以上に)減りそうですが、ご容赦下さい。なおこれは単に順番で回ってくる役職ですので、とくに「出世」した(したい)とかいうアレではございませんので誤解の無きよう。この手の仕事に向いていないことは自明にして周知ですので、とにかく無事に職責を全うできるように祈るのみでございます。
役職者ということもあり、今年度の授業はゼミを除くと前期に一コマ(感性学的デザイン原論)だけという有様でして、例年にも増して、いよいよ私の本業は何だろうかと混迷の度を深めております。
ただしゲーム研究センター(RCGS)の事務局長職は継続しますので、ゲーム研究には引き続き(これまで通りの時間と労力が割けるかどうかは甚だ心許ないですが)取り組んでいきます。ここをご覧の皆様も何かいい話、面白いネタがあればぜひ。
教師としての本分を思い出させてくれる「心のオアシス」(といいながら直前には決まって準備で死ぬ思いをするわけですが)は、すっかり他大学での集中講義になっておりますが、今年は夏に九州大学箱崎)、冬に東京大学(本郷)にうかがいます。後者は言わずと知れた文学部ですが、前者は私の教歴にとって初となる工学部系でございます。錯覚論を扱う予定ですが、どこまで関心が共有されるかドキドキであります。後者では「耳から考える感性学」というテーマで講義をします(→シラバス)。両大学(近辺)の関係者の皆様は、どうかよろしくお願いします。寂しんぼうですのでかまってやってください。ただし酒量は致死未満のほどお願いします。