言ってしまった後で反省したこと二つ
まったく脈絡もなく、時機も関係なく、これまで私が言ってしまった後で反省したエピソードを二つ書きます。一つはかなり昔のことで、もう一つはごく最近のことですが、どちらも、それ以後の私の言動や価値観を変えた、トラウマティックな出来事なので、身近な人にはすでに話したことがあるかもしれません。
一つ目は、私が大学生(か大学院生)の頃。新宿紀伊國屋本店のエレベーター(確か二台あるのだけど、なかなか自分の階に来ないヤツ)に乗っていたとき。小学生くらいの男の子とその母親らしき二人と乗り合わせた。母親が先に降りて、しばらくその男の子と私は二人きりになった。母親は降りる前にその子に声を掛けたのだけど、それが英語だった(終わったらすぐに降りてきなさいね、みたいな内容だったと思う)。その親子は、見た感じは日本人だったんだけど、英語で喋っていたので、私はその子に「どこで降りますか?」と英語で話し掛けた。そしたらその男の子は「ボク、日本語できますよー」とすごく悲しい顔で言った。これは完全に間違えたことをやってしまったと思った。
「ボク、日本語できますよー」と子どもに言わせるなんて、最低の大人だ。深く傷つけてしまったに違いない。おそらくその子にとって、そう言われるのは、初めてのことではなかったのだと思う。そのような言い方に感じた。だからこそ、私の自己嫌悪も深かった。彼を傷つけ続けている人間の一員に、私も加わってしまったのだ。「ボク、日本語できますよー」。彼の悲しそうな言い方は今でもはっきりと耳に残っている。その場での「正しい」振る舞い(声の掛け方)がどうであったかは、当時も今も分からない。けれどもそれ以来私は、同様な場面に(日本で)遭遇すると、相手が大人か子どもかにかかわらず、相手が日本語を解するかどうか分からなくても、基本的にまずは日本語で話しかけることにしている。その方が、相手を傷つけてしまう可能性がより少ないと思うからだ。
もう一つは、最近とある出張先の大学で出会った、留学生とのやりとりだ。彼はとある隣国から来て二年目くらいで、日本語は問題なく話せる。日本で五本の指に入るトップクラスの大学の学生だ。私は「日本の大学で何をやりたいの?」と聞いたが、彼は「いや、とくに…」と素っ気ない。その場は、そこの研究室の学生全員が、初対面の私に対して、それぞれ自己紹介をするような場だったので、そして、彼が少し謙遜している風でもあったので、こちらも少しつっこんだ方がいいかなと思って、「いや、そうはいってもわざわざ日本に来ているんだから、何かあるでしょう、日本で関心あるものが」と言った。そしたら彼は「いや、それが本当にないんですよ…。単にここで暮らして、大学に通ってるだけです…」と。その後少し時間をかけて聞いたら、彼は自国の社会規範や共同体意識(集団主義)が好きでないらしく、そこから逃避しようと、とりあえず日本を選んで来たらしい。なので、とくに留学生としての気負いもなく、日本の大学生がしているような暮らしを普通にしているだけ。私も、学生が目の前でそういうことをいうのは新鮮だった(よって想像力が及ばなかった)だけで、それ自体はよくある話だし、日本の空気が合わないという理由で日本以外に住んでいる(元)日本人もたくさん知っている。そして、自分自身では考えたことがなかったが、そういう移動は「あり」だと思っている。というより、それが「あり」だと、彼と話すことで初めて自覚的に考えることができた(ということを、その場で彼にも伝えた)。
自分が生まれた国、住んでいる国が肌に合わなければ、居心地が悪ければ、別の国に行けばいい。それだけの話だ。その人が悪いわけでも、社会が悪いわけでもない。単に相性の話だ。そのことに特別な理由ない。そして学生という身分や留学という機会はそのために最大限利用した方がよい。このとき以来、私は「わざわざ外国から日本に来ている人は、日本に何か特別な関心や思い入れがあるはず」という思い込み(偏見と言ってもよい)に基づいた質問をしないようになった。そして教育者としての責務に抵触しない限りで、自分が面倒をみている留学生に対しても同様の態度で接するようになった。「ここが居心地がいいから住んでるだけで、とくに興味もやりたいこともないんですよ」と言いながら国境をこえて移動する人、そしてそれをごく自然に受け入れる社会、それこそが、今後理想とすべき人間と社会のあり方ではないか、とすら今では思っている。