「視覚的怪物」の擁護のために

視覚像(イメージ)は、言葉(概念)によっては表現不可能な、異種混交的(ハイブリッド)な怪物を描き出すことができる。
レッシング(『ラオコーン』)は、詩人が「偉大なもの」として描く存在も「画布の上では化け物じみたものになってしまう」と言った。よって、視覚像を「市民的法律の支配下」に置かなくてはならない、と考えた古代ギリシャ人は正しかったのだ。
詩人はラオコーンに「絶叫」させてよいが、造形芸術家はそのように描いてはならない、とレッシングが言うのは、絵画や彫刻が「醜さ」や「嫌悪」の領域に容易に踏み入ることを警戒したためであった。絵画は詩に比べて「幻惑のあらゆる手段」で優っており、詩(言葉)によって馴致する以外に、「視覚の暴走」を止める方法はないからだ。
だがそのことは逆に、言葉(概念)によっては表現できず、視覚像によってのみ表象可能であるような、おぞましくグロテスクな〈真実〉がある、ということを意味しないだろうか。それは、あらゆる概念的囲い込みと法的支配を免れるような、視覚的〈真実〉である。
例えば、ジェイ(「正義は盲目でなくてはならないのか?」)が取り上げた、二つの顔を持つ女神ユスティティアの像(「地上の正義の肖像」)は、そうしたものの典型だろう。片方の顔は目隠しがされたまま、天秤(規則に従った不偏不党の計算の隠喩)を持つ手の方を向いている。もう片方の顔は目を見開き、剣をかざす手を見つめている。そうしたハイブリットな怪物である。視覚が見出す「差異」に固執しては公正な判定が下せない、だからユスティティアは盲目である(代わりに天秤を持つ)必要がある。だが他方で、抽象的規則・法の「盲目」性を批判し、一般性に還元不可能な「差異」と「個別性」を見つめようとする「目」が、「錯覚」に陥っていないという保証はない。「地上の正義」というのはそうしたアポリア弁証法の中でしか思考されえず、それを一般的概念で指し示すことはできない。それは「視覚的怪物」のかたちでしか、この世に存在しえないのだ。

この「視覚的怪物」の存在は、われわれに少なくとも二つのことを教えてくれる。
第一に、像というものが一般的概念には還元不可能であること。すべての視覚像は過剰なまでの「個別性」と「差異」を備えている。「似ている」ということは「違う」ことでもある。従って厳密に言えば、像においては「AがBに似ている」という「主客」の階層関係は実は成立していない。「知覚するもの」と「知覚されるもの」の間の「受動的な親和性」、それをアドルノ=ホルクハイマーはミメーシスと呼んだのだが、それはすべての視覚像の関係にあてはまる(同一でなくてもよい、という点にこそ、「像を描く自由」(後述)が存在する)。「等価」で「同一」の関係を持った複数の像があるかどうかはまったくもって疑わしいし、いわんや言語(概念)によって──「○○を描いた絵」という言い方で──記述・同定できる像など一つも存在しない。
第二に、像というものが、法(言葉)による管理・監視を行う側にとって、つねに厄介な代物であるということ。画家にモデルをより美しく描くことを命じ、より醜く描くことを禁じたテーバイの法律。キリスト教の歴史の中でたびたび起こったイコンの禁止と偶像破壊。それらを、古代の異教徒や狂信に駆られた人々の無知蒙昧な行為として笑う権利は、われわれにはない。
ヨーナス(「ホモ・ピクトル、あるいは像を描く自由について」)は、人間の本質、すなわち人間をそれ以外の生命体(動物)から区別するものとして「像を描くこと」をあげた。「言語」や「発話」や「思考」は、もしかしたら人間以外でも持っているかも知れない。またそれらをもって人間と動物を区分しようとする場合、「言語」とは何か、「思考」とは何か、という二次的な問いが生じてしまい不適切である。ヨーナスの考えでは、ただ「像を描く」ことのうちに、類似の知覚/作為・製作/抽象化・図像化/時間や運動の固定化といった、すべての「人間的」能力が含まれているのだ。そう、われわれは「ホモ・ピクトル(描く人)」なのだ。
そしてヨーナスは、人間の本質である像を描く能力を、一貫して「自由」という観念に結び付けて理解している。複雑な対象を「単純化」して描く自由、立体物を二次元に「変換」して描く自由、任意の要素を「強調」するカリカチュアの自由、これらはすべて「人間」の定義にかかわる(他の生命体には備わっていない)「自由」なのだ。そして彼は──「真理」にあまりに忠実であったためか──付け加えることを忘れたが、ここには「怪物を描く自由」も含まれていると考えなくてはならない。「像を描く自由」というのが、自然界(動物)と人間のあいだの裂け目、世界(神)と人間のあいだの裂け目に生じたものだとするなら、「視覚的怪物」を作り出してしまう自由こそが、ホモ・ピクトルたるわれわれのもっとも「逃れがたい自由」ではないのか。「像を描く自由」に比べれば、信仰の自由や思想の自由などは、せいぜい「うわっつら」のものにすぎない。
「視覚的怪物」を生み出す「リスク」──それは逃れがたい──まで含めて、われわれは「像を描く」自由を引き受けるのか、それとも手放すのか。それは、われわれが動物を超える「自由」を持つ勇気があるのか、それともないのか、と問うことと同じである。形而上学的どころか、ほとんど「神学的」に聞こえるかもしれないが──なにしろヨーナスも「ハイデガーと神学」の著者であるから──あえて言っておくと、これは他のどこでもなく、まさしく今ここでわれわれに突き付けられている問題なのだ。