バウムガルテンについて、とある疑問

ここ二、三日ほど、短期的にはビデオゲーム論の「感性学」的土台を作るため、長期的にはライフワークの一つにすべく、バウムガルテンを集中的に読んでいる。「ヒッチコックによるラカン」(ジジェク)ならぬ、「スーパーマリオによるバウムガルテン」(笑)なのだ、私の場合。
で、感性学をやるならカント以前、とりわけライプニッツからバウムガルテンにいたる系譜を見るのが(後の時代に消えてしまった問題がいっぱい詰まっていて)面白いだろう、というのが私の現在の認識。カント以降はもうやり尽くされているから、というのもある。あと、何をやってても結局、原点というか起源に行き着いちゃうのが私の性というのも。
(ちなみにバウムガルテンとは十八世紀ドイツの哲学者で、“aesthetica”という語を造り出し、「感性学(美学)」のディシプリンを創設したとされる人。『詩に関する諸点についての哲学的省察』(1735年)という本で“aesthetica”の語を初めて用い、さらにこの語を題名とする書物『感性学(美学)Aesthetica』(1750/58年、未完)を刊行。さっき嫁さんから「バウムガルテンって誰?」とつっこまれ、そういえば業界外にはまったく知られてないよなと思い至った次第。)
そこでさっそく、一つ発見というか、研究に直接つながりそうなタネ=ネタが見つかったので、ここにメモしておく。
ライプニッツ=ヴォルフ学派の「明晰/曖昧−判明/混雑」の階梯が、バウムガルテンの「感性学」の構想の土台になったことはよく知られる(美学徒にとっては常識かしら)。つまり「明晰だが混雑な(=判明でない)表象」が「下位認識能力の論理学」たる「感性学」の対象であるという定義だ。この「明晰だが混雑な(=判明でない)表象」とは、われわれが見分けることはできるが、見分けるための根拠(要素)を逐一列挙できないようなものである。ライプニッツがあげる例は、遠くから聞こえる潮騒などである。サルトルが『想像力の問題』で論じた「多柱性」(頭でイメージする神殿の柱の数は数えられない)などもこれに連なるだろう。バウムガルテンによれば、こうした表象を扱うわれわれの能力は、想像力や記憶、詩的創作力、予知などであるが、それらはいずれも「下位認識能力」である。それらの諸能力の論理を明らかにするのが、感性学というわけだ。なお「明晰で判明」な表象、つまり他の表象からそれを見分ける根拠(要素)をきちんと列挙できるような表象は、バウムガルテンによれば、感性ではなく、上位認識能力(悟性)の対象である。
ところでバウムガルテンが依拠するこの「明晰−判明」の区分を、ライプニッツは有名な「認識、真理、観念についての省察」(1684年)で提示したのだが、そこでは「明晰だが混雑な(=判明でない)表象」は「単一の感覚によってのみ証言されるもの」とされており、色、匂い、味が例にあげられている。一方、「明晰で判明な表象」は「複数の感覚に共通のもの、例えば数、大きさ、形」である。この区別はロックのいう「第一性質/第二性質」とも重なるものであり、また元を辿ればアリストテレス以来の(メタ感覚としての)「共通感覚」の議論の延長上にある。
さて問題は、この「単独/複数の感覚による認識」という論点が、私が読んだ限り、バウムガルテンではすっぽりと抜け落ちているように見えることだ。さきほどそれに気付いたばかりで、どうしてか、までは分からないが。バウムガルテンは「感性学」の言い出しっぺ(のはず)でありながら、どうも感性の次元を捉え切れていない(だから「美学」として読まれてしまう)というのが私の長年の印象であるが、その理由ももしかしたらこれに関係があるかもしれない。彼の『形而上学』には「感覚 sensus」を長々と扱った節があるのだが、そこにもこの論点は出てこない。
共通感覚(複数の感覚から受け取るデータの一致/齟齬というメタ判断)の問題がどうしてバウムガルテンの「感性学」の前提から抜け落ちているのだろうか。あるいはむしろそれを隠蔽しなくてはならないような必要性があったということなのか。共通感覚は感覚(または感性)の論理の自立性を脅かす、とでもいうのだろうか。何かとても核心めいた匂いがしますが、私としては今、バウムガルテン研究に首を突っ込む余裕はあまりなく、これ以上は調べたり考えたりできそうにありません。どなたかこの辺りのことを知っていたら、そのうち教えて下さい。あるいは実際にはバウムガルテンがどこかで論じているのなら、それはそれで知りたいです。私のサイドワークである「五感の思想史」研究の側から見ても重要だと思われます。
最後に、今回調べていて驚いたのだが、ライプニッツもヴォルフもバウムガルテンもかなり多くの著作がネット上にPDFが転がってるのね。思わずいっぱいダウンロードしまくりました。古典関係(この場合は「ラテン語哲学文献」程度の意味ですが)は二次文献も含めて著作権フリーなものが多いから、極端に言えば、PC一台とネット環境がありさえすれば論文が書ける時代ですね。