「パン屋再襲撃」再読解

村上春樹に「パン屋再襲撃」という短編(コレの巻頭に入ってる)があり、大昔に読んだことがある。
ただし設定や細部はすっかり忘れていたのだが、先日とある人から(誰だか覚えてないが、若い人だったような記憶が。うちの学生かしら)「あれってヴァーグナーを聴かされる話ですよね」と言われ、それはまったく記憶になかったので、軽く驚いた。そういえば、これを読んだ時分(学部生の頃だったか)は、私はヴァーグナーにはほとんど関心がなかったから、覚えていないのも当然でもある。
で、昔買ったその文庫本は研究室の本棚に入っているので、先日ふと手に取ってみた。いやー、今読み直すと面白いね。ヴァーグナーがネタだと教えてくれた誰か、サンクスです(今度会ったとき、御礼を言いたいので教えて下さい)。
「大学時代、友人とパン屋に強盗に入ったら、そのパン屋がたいへんなヴァーグナー・マニアで、パンをもらう代わりにヴァーグナーの序曲を聴かされた」というのが(一度目の)「襲撃」である。主人公は、これが「強盗」だったのか、それとも「交換」なのか、悩み続け、結婚後そのことを妻に話す。

「それはどう考えても犯罪と呼べる代物じゃなかった。それはいわば交換だったんだ。我々はワグナーを聴き、そのかわりにパンを手にいれたわけだからね。法律的に見れば商取引のようなものさ」
「でもワグナーを聴くことは労働ではない」と妻は言った。
「そのとおり」と僕は言った。

「でもワグナーを聴くことは労働ではない」という妻のセリフに今回私は一番ピンときた(かつ痺れた)のだが、でも実はヴァーグナーを聴くことは「労働」かもしれない、とも「僕」は思っているのだ。ここで立っている問いは以下。ヴァーグナーを聴くことは果たして「労働」なのか、それとも「消費(娯楽)」なのか。われわれはそれを「聴かされる」のか、それとも「聴く」のか。もし「聴かさせる」としても、それは何か(例えばパン)と「交換」できる価値を持つものなのか。そして今日にあって「労働」と「消費」との境界はますます曖昧なのではないか(他の作品でも見られるテーマであり、この問いにとりわけ村上は敏感であるように思われる)。
そしてこの一見ナンセンスな問答自体が、じつはすぐれて「ヴァーグナー的」、より正確に言えば、「アドルノ的な意味でヴァーグナー的」なのだ。
アドルノは『ヴァーグナー試論』で、ヴァーグナーの作品が「芸術(芸術のための芸術)」なのか「商品(文化産業)」なのかという弁証法的な問いを立てた上で、その問いを(ヘーゲル流に)突き抜けた。アドルノいわく「芸術はおのれの解放によって反対物へと転化してしまう」。つまりヴァーグナーは「芸術による芸術」を徹底化し、自らの芸術を宗教(礼拝)に一体化させた(典型的には『パルジファル』)ことで、結果的に、その反対物(大衆的消費文化)を生み出してしまったのだ。これはある意味で(というか実際に)ベンヤミンの複製芸術論への批判にもなっていて、ベンヤミンが「芸術史の両極」として措定した「礼拝的(アウラ)芸術」と「機械的(複製)芸術」の対立を、アドルノは見事に突き抜けて(止揚して)いるのだ。彼がベンヤミンに「もっと弁証法を!」といったのは、この両極が(偽の二項対立であり)維持できないという認識からであった。ともかく、ベンヤミンが持ち出すボードレールに対して、アドルノが(その同時代人である)ヴァーグナーを持ってきて、「一本取った」わけだ。
でまあ、私がこうして弁証法とか反対物への転化とか、しちめんどくさく説明することを、「パン屋再襲撃」はきわめて簡明に主題化している。つまり、あの「襲撃」は成功だったのか否か、ということだ。
むろん、成功か否かという問いは解決されないままなのだが、そのことに悩む主人公は、その襲撃以来、自分には「呪い」がかかっている、と妻に打ち明ける。そして、この「呪い」を解くためにはどうすればよいかというと、もう一度同じことをやればよい、ということになる。それが「パン屋再襲撃」である。
「呪いを解くためにはもう一度同じ傷を負わなくてはならない」というこのモチーフも、むろん、きわめてヴァーグナー的なものである。「役に立つ武器はただ一つ。傷をふさぐのは、その傷を負わせたこの槍ばかり」という有名なパルジファルのセリフを思い出せばいいだろう(そういえばヒッチコックの『めまい』も同様な設定だし、けっこう普遍的なモチーフなのかも。文化人類学とか神話研究の人に聞けば分かるかな)。
そうして夫婦は深夜に「パン屋再襲撃」の旅に出るのだが、ところがいくら都心を車で走っても、肝心のパン屋が見つからない。深夜なので空いているのはファーストフード店ばかり。で、最終的に夫婦は「これはパン屋ではない」と分かりつつ、仕方がないのでマクドナルドを襲撃するのだ。
この、またもや成功か失敗か分からない、不発な印象の結末も、じつによくできている。というのも、ここでの「パン屋/マクドナルド」の対立(落差)は、実はアドルノが『ヴァーグナー試論』で提示した「アウラ(手作り)/複製(大量生産)」の対概念(しかも偽の対立)に重なっているからだ。つまり主人公(夫婦)は、まさにヴァーグナーに導かれ(媒介され)て、(再び)パン屋を探し求め、結果としてマクドナルドに行き着くのである。アドルノによれば、それはまさしく「芸術」が十九世紀から二十世紀にかけて辿った道である。そう、この「アウラ的なものの反転としてのマクドナルド化」が「パン屋再襲撃」のプロットに他ならない。
という具合で、今読み返したら、大体理解(深読み)できた気がする。少なくともこの短編にとって、ヴァーグナーは(他の音楽家と取替可能な)単なる「名前」以上の存在である、ということが分かった。
つーか、村上春樹さすがだ、という話か。
唯一、謎として残ったのが、繰り返し出てくる「海面と海底火山」のイメージ。これはどこから来たのだろうか。というより、そもそもどういう意味があるのだろう。
ちなみに『ヴァーグナー試論』の翻訳(高橋順一さんによる)、ここの近刊に上がってますね。早く出ないかな。
アドルノも(基本、趣味がスノッブなせいか)音楽学界隈(とくに日本の)では評判がよろしくなく、ジジェクが「ヘーゲル以上」と手放しで賞賛している、そのラディカルさがあまり理解されていないからなー。そのうち時間ができて機会があったら、もうチト勉強して何か言ってみたいな。
ハイ、逃避はこれくらいにして、某シューマン論文に戻りマース(一眠りしてからですけど)。