近況および新年度にむけて

20日の国際会議では無事にコメンテーターとしてお勤めを果たして参りました。私の報告は以下。

Hiroshi YOSHIDA. "Humanism without (Defining) Human? Memorandum on Professor Anne Phillips' Paper "In (Partial) Defense of Cosmopolitanism."" Commentary at the International Conference: "Bonds and Boundaries: New Perspectives on Justice and Culture," at Kinugasa Campus, Ritsumeikan University, Kyoto, March 20, 2010.

短いテキストなのでここに載っけても良いかなと思ったのですが、会議の成果をそのうちオックスフォードあたりから出すという話も聞いたので、今はよしておくとして、もし出版されたらまたそのときにご案内します。
三日間のうちの三日目が自分の出番、ということもあり、結局三日間とも会議に出席し、(英語のディスカッションに頭を慣らすという目的もあって)懇親会も二晩参加しました。三日間終わって痛感したのは、読み・書き・聴きはだいぶマシになったんだけど、まだまだ言いたいこと(ある程度まとまりをもった主張)がその場でパッと英語で出てこない(話ながら論理を組み立てられない)ということ。今後の修行課題にします。それが分かっただけでも今回参加して良かったかなと。幾つかの素晴らしい出会いもありました。
この会議のために結構根を詰めて準備をしていたので、それが終わってからようやく本当の春休みという気分。残された短い時間をせめて家族サービスにと、私が仕事で東京に行ったついでに、家族も合流して帰省をし、実家でたっぷり親孝行をしてもらった後、ココにも寄ってきました。あと上の娘と前から約束をしていた(前売り券を買っていた)コレも観てきました。京都のMOVIXですが、混んでると嫌だなと思って平日の午前中に行ったらガラガラで、逆に心配になりました(最近京都市内では百貨店の撤退やテナントビルの閉鎖とか相次いでるんで)。内容についてですが、もう最近では子供向け商業的娯楽文化に付き合っている最中にはすっかり思考停止してるので、とくに言いたいことはありません(笑)。
ところで、来年度の本務校(立命館大学大学院先端総合学術研究科)での講義ですが、二年間担当してきた基礎講読演習から外れ、その代わりに応用講読演習を持ちます。そこでは「ユニバーサルデザインバリアフリーの思想」という私にとって初めてのテーマに挑戦しようと思っています。シラバスここ。前期です。
毎年担当している表象論史は、来年度は「現代思想」色を少し薄めて、視覚(認知)理論(アルンハイムやゴンブリッチ)寄りのことをやるつもりです。これも前期。シラバスここ
後は後期に一コマ、学部(文学部)の講義「芸術とメディア」。大学院専属の私にとっては人数が多くてちょっと大変なのですが、学部生を相手にするのもたまには楽しいですし、カリキュラム上も大事な科目と思われますので頑張ります。これはシラバスはナイショ(笑)。といっても全部ここから見れるわけですが。
表象ゼミは例年通り水曜日の夕方。
講義は(前後期とも)火曜日と水曜日だけですが、その他の曜日も何だかんだで大学(研究室)にいることが多いと思います。まだまだ昼間に家で仕事はできないし(上の子は仕事の何たるかをだいぶ理解してきたのだが、下は私が部屋にいると何かと用件を捏造して入ってくる。そして巧妙に居座る。つかオレと一緒)、授業以外にも学生や他の教員と色々やりたいと思ってますので。
来年度は他大学にも出講しませんので、基本的に毎日京都におります。立命館関係者だけでなく、それ以外の方も、研究会やイベント(や飲み会)がありましたらどんどんお声がけいただければ嬉しいです。大阪・神戸辺りまでは常時遠征可能です。
来年度は雑誌原稿の依頼がすでに数本入っており、また座談会や新規共同研究プロジェクトの立ち上げもやらなくてはならないので、自発的に学会発表をしたり学会誌に論文を投稿したりする余裕はなさそうです(それじゃあ本当はいかんのだけど)。
でも最近ふと考えるのですが、私、今(まで)のような「仕事を頼まれたら断ら(れ)ない」スタンスだと、この先、単著の執筆のような「とくに締切のない単独でやる仕事」をうまくやっていけない気がしてます。それらは自分としてはきわめて優先順位が高いのですが、雑誌のように絶対的締切があったり、滞ると人様にご迷惑をおかけしてしまう仕事の方をどうしても先にやってしまうからです。しかし実際には、単著が滞ることで、出版社(編集者)には多大なご迷惑をかけているわけですし、自分の評価も相対的に下げているわけです。とか言いつつ他方では、仕事(人生)とは自分の意志に依らず常に他人によって巻き込まれ動かされていくものだ、というのが私の基本的人生観だったりもします。実に悩ましいですね。皆さんその辺りどうされているのでしょうか。単に私が不器用、あるいは時間の使い方が下手なだけかも知れませんが。
ところで先日、以下のご本をご贈呈いただきました。

高橋順一ヴァルター・ベンヤミン読解──希望なき時代の希望の根源』(社会評論社、2010年3月)[Amazon.co.jp]

著者とも出版社(編集者)ともとくに交流がないので、いきなり届いて、開けてみて驚きました。
高橋さんとは一度研究会でお目にかかった(早稲田のオペラ研究会で私がヴァーグナーの発表をしたときに見に来ていただいた)記憶があるだけで、きちんとお話ししたこともないし、連絡先も知りませんでしたが、彼の『響きと思考のあいだ』に私が深く傾倒したことを『ヴァーグナーの「ドイツ」』のあとがきに書いたので、それをご覧になって、この度の新著をお送りいただけたのかなと勝手に推察しています。ともかく、ありがとうございました。いずれ直接御礼申し上げる機会があればよいのですが。
この本はこれまでの著者のベンヤミン論をまとめたもので、こうして一冊になると大著ですが、その成り立ち上、ベンヤミンを満遍なく論じようとしたものではないだけに、かえってどの章もよくツボを突いた論考となっています(ところで私は、最近の「スターリンの殺し屋がベンヤミンを抹殺した」説(S・ジェフリーズ)の存在をこの本で初めて知りました)。うちの学生でもベンヤミンをやってる人がいるので、その関係でもベンヤミン研究の動向は気になっているのですが、この本は間違いなく(著者もあとがきでそう期待しているように)入門者・初学者に最適なものです。まず一通り読んでみて、その後とくに興味をもった論点を、自分でさらに掘り下げていく、そうしたらいつのまにかレポート(卒論)が書けてしまう、といった使い方ができそうな気がします。私のようなもの(=加齢した初学者)が読んでも、ベンヤミンについてアクチュアルなトピックが、それぞれの基本的問題設定と典拠となるテキストの情報、さらに著者独自の主張を含めて、概観的に理解できるので、読んでいて楽しいですし、勉強になります。