研究=セックス・アナロジー説

──「研究をやりたい」という学生にアドバイスを。
 ふつうは「ぼく、セックスしたいんですけど」なんてひとに言わないよね。あのさあ、研究なんて、人に「やりたい」っていう前に自分でこっそりやってなきゃだめでしょうが。本読むのだって、文学部入ったのだってすでに研究ですよ。「風呂に入りたい」とか「フランスに行きたい」とか言うみたいに「研究やりたい」って言ったって、ここから先がそうですといってさせてあげることはできません。

これは『文学部唯野教授のサブ・テキスト』(1990年)における唯野教授の発言中の「文学」の語を「研究」に置き換えたものだ。
印象深いフレーズだったので、これまでも記憶に頼って何度か人前で紹介・言及したことがあったが、あらためて引くと、この文学=セックスのアナロジー説、やはり至言である。ここではこれを研究に置き換えて考えてみたく。
ポイントは二つ。
第一に、研究なんてものは、自分でも動機や目的や方法がよく分からないまま、人に教わる前に、すでに自分なりに始めちゃってるものだ、ということ。逆に言えば「これから研究やりたいんですけどどうすれば…」などとわざわざ聞きに来る人は、そもそも研究に向いていないということだ。むしろ「こんなことやっちゃってる/考えてちゃってる/調べちゃってるんですけどどうすれば…」と言ってくるぐらいでちょうどよい。こちらも「こいつは(すでに)仲間だ」と第一印象で判断できる。
これに関連してよく知られるのは、指揮者・作曲家バーンスタインのエピソードである。彼は、若い人から「私は音楽家になりたいのですが、果たして向いているでしょうか」と尋ねられると、決まって「ノー」と答えていたそうだ。その理由は「私に相談したから」。バーンスタイン曰く、

楽家というのは、向き不向きを考える以前に、どうしてもなりたくてしかたがなくてなるものである。本当に音楽家になりたければ、自分の向き不向きなどかまわないものだ。私に相談したということは、あなたにはそこまでのやむにやまれぬ熱意はないということを意味する。よって私の答えはノーということになる。

まあこれも正論ですね。向き不向きを気にすること自体は、別に良いと思いますけど、こういう質問って、単に励ましてもらいたい、自信がない自分を肯定してもらいたい、ということがしばしばなので、あえてそこまで突き放すのも教育的には正しいのかもしれません。
さてポイントの二つ目は、「やりたい」などと人前で公言せずに「こっそり」やるものである、という点。
私の恩師の一人が、修士学位授与の訓辞の際に「学問はそもそも、不健康なもの、後ろめたいものです。学問をやってます、などと、世間に向かって胸を張って堂々と言えるものではありません」と言っていた。これがいまだに私の心に強く残っている。これから博士課程に進み、研究者の道を歩き始めんとする学生に対する、最高度の戒めではなかろうか。当時からそう思って感心していた。もっとも、そこは国立大学(当時)の文学部だったので、税金で好きな研究をやらせてもらってるのだから…という意識から出た言葉だったのかもしれない。理由はさておき、学問・研究とは不健康で後ろめたく、人様に堂々と言えるものではない、というのは(場合によっては不都合な)真実であろう。
外向き・世間向きに堂々と「研究者ヅラ」してるヤツでろくなヤツはいないというのは、経験的にも事実だが、それはその人達が「後ろめたさ」を持たずに、あまりに「健康的」にみえるからだろう。もちろん「健康的」なのはたいへんよろしいことです。ただ健康な人は健康な世界、マジョリティーの世界で生きてください、というだけのことです。いわんや、そうした「健康」な人達のせいで、普通の意味での「健康」な人が、騙されて、「不健康」な世界に飛び込んでしまう、ということはあってはならない。
とにかく研究というのは、調べて読んで考えて書いて議論してという客観的にみればまったく価値も魅力もない作業を、来る日も来る日も、飽きずに繰り返す、常軌を逸した営みであり、やってる方も、どうして自分がこんなことやっているのか、よく理由も説明できないままに、いわば本能的に(あるいはまともな本能が壊れた結果)そうやらざるを得ないからやってる、やってしまってる、どうしてもやっちゃう、という営みである。間口は広い(ようにみえる)けど、明らかに万人向きではない(この点ではまさに唯野教授のいう「文学」と同じだろう)。「研究者をもっと増やそう」という昨今の国家的ビジョンについて心配なのは(受け皿云々の前に)この点だ。
プラトンによれば、ソクラテスは、セックスは「きわめて快い」にも関わらずそれを人前で見せるのは「醜い」という事実を指摘し、それに基づき「快さ」は「美しさ」から区別されるべきだと言った。

また思うに性のよろこびに関することにしても、それはきわめて快いことではあるけれども、その行為をひとがじっさいに行う場合には、人目に立たぬように行わなければいけない、人目にふれることはいたって醜いことだから(プラトン『ヒッピアス(大)』)

これを敷衍するなら、研究という行為も同様に、その人にとって「きわめて快く」ても、客観的に「美しく」はないから、目立たぬようにこっそり行わなければならない、ということだ。
では、研究は「醜い」ものだから人に見せるな、ということなのか、それだったら単なるオナニー的行為(実際しばしばそう揶揄されるように)になってしまうではないか、という疑問が生じるが、そこはこの研究=セックスのアナロジー説を徹底することで解決できるだろう。すなわち、どちらの場合も、その「過程」(行為)は客観的にみれば「醜い」が、そこから生まれる「成果」は「美しい」ものでありうる(もちろんそうでないことも多い)ということだ。むろん「成果」とは、前者の場合は著作物や口頭発表を指し、後者の場合は子(子孫)を指す。どちらも「産みの苦しみ」を経ないと出てこないものだが。多少(ヘーゲル風に)言い過ぎるならば、美しいものは醜いもののなかからしか生まれ得ない、というわれわれにとって最大の謎がここにはある。
あれっ、こんなことを言おうと思って書き始めたのではなかったんだけどな。研究はいかに暗くて不健康で恥ずかしくて、でもなぜか止められない、それはきっと人として壊れているから、ということを書こうと思っていたはずだのにな。まあいいや(笑)。あと、セックスなるものがはたして「健康的」なのか「不健康的」なのかは、私の手に余る大問題なので保留にします。
この『サブ・テキスト』を、『唯野教授』本篇と合わせて、最初に読んだのは高校生の時だったか。そのときはまさか自分が、そのなかで戯画化された世界で飯を食っていく大人になるとは夢にも思わなかったわけだが。しかも今回初めて気づいたのだが、唯野教授の設定、今のオレと同じ36歳なんだよね…。もうすっかり中年であるという現実を直視せよということか。
今回読み返してみて、他にも幾つか、これは使えるなという発言があったので、以下に引いておこう。

──現在、大学が社会に果たしている機能は?
 それ考えちゃいけないの。それ考えるからおかしくなっちゃうの。大学はそれ自身の目的を持ってなくちゃいけないの。大学人は社会のことなんか考えなくていいの。これはたとえ医学部だろうと社会学科だろうとそのなの。(原文そのまま)

大学の「自律性」が足らんという話ね。いいね。すでに「おかしくなっちゃって」以降、最近では誰も正面切ってこういうこと言わんからなあ。「社会に役立つ」ことを中途半端に目指す(そして失敗する)よりも、大学でしかできないことを極めていく方が、明らかに社会的存在価値も上がるという、単純な道理。

──「学問などなんの役にもたたん」というオトーサンに一言。
 あのう、そういう人がいないとまた困っちゃうんだよね。おれの父親もそうだったの。だからこそ学問の快楽的うしろ暗さや甘美な罪悪感が理解できたわけでさ。世の中に役に立つ、明るい学問なんて、ほんと、困るんだよね。でも最近、そういう人がふえてきたから、むしろそっちの方が問題だろうね。(原文での「文学」を「学問」に置換)

「オトーサン」っつーのがまた時代概念だが(笑)。私が今回言いたかったことが、ここで見事に要約されちゃってるわ。で、現在のわれわれの問題、あるいは真の敵も、「オトーサン」ではなくて、本当に「むしろそっち」だな。