ぼくの好きな先生
twitterを初めて二ヶ月くらいが経ったわけです。
とくに周囲に公言してはいないが、案の定かなりの数の学生(この場合、立命館の学生・院生っていう意味ね)に見つかってフォローされているが(学部を持ってないこともあり学内では無名なので言うほどでもないが)それをあまり意識してどうこうということもない。授業を聴講したいと言ってきた人は(よほどの事情がない限り)すべて受け入れるのと同じことで、そもそもがパブリックなやり取りにおいて何らかの線引きをするのは、線引きの基準が難しく考えるのが面倒なので(これは単に私の性分)、物理的に対応可能な限りはすべて受け入れる。たしかmixiもそういう方針でやっていたはずで(もう詳細は忘れたけど)学生からのマイミク申請も断ったことはないと記憶している。ましてやtwitterは勝手にフォローされるだけで、フォローされる分にはこちらは別に何ら迷惑ではないから、これもとくにあれこれ対応・対策を考えることなくやっている。「おそらくこれはうちの学生だろーなー」と思うような人とのやり取りがあっても、とくに勘ぐることなく、通常通りにやり取りをしている。中には互いをアイデンティファイしている同士の「業務連絡」みたいなものがたまに混ざるが、それは当然パブリックにしてもいい(むしろすべき)ものをそうしている。この辺はメーリングリストなどに近い感覚だ。
以前(そっち方面の委員をしていた関係上)目を通したハラスメント関連の文書(学内のではなく全国ネットワーク的な資料)に、たしか「SNS・携帯メール等で学生と頻繁にやり取りする」のは黄信号、みたいな記述があったけど、私の経験では、別にSNSでもパブリックでやってる(やり取りを曝してる)分にはいっこうに問題ないような気がする。携帯メールは危ない(ほとんど赤信号)と思うけどね。
ところで、私のような若手教員、言い直すと年功序列制度の末端部で重労働を強いられている立場の者は、しばしば学生との媒介役・折衝役を期待される・担わされることがあり、私も基本的に人と何かするのは嫌いな方でないのでできる限りの対応をするわけだが、その際にいつも注意しなくてはと思っているのは、「学生に理解を示す先生」や「話せば分かってくれる先生」という存在は一般的に(学生側にとっても教員側にとっても)ためにならない、ということだ。それに関連して言っておけば、「人生論」や「研究者の生き様」みたいなことを好んで語りたがる教員(会社の上司も同じだろうが)にもろくなヤツはいない。これは学生の側も頭に入れておいていいだろう。「オレが人生の何たるかを教えてやる」とか言って、酒の席に学生を誘うような教員(上司)は、まず間違いなくアカハラ(パワハラ)もしくはセクハラを(そしてかなり高確率で両方を同時に)する。大学教員としては実は情けないことかもしれないが、私は個人的には「研究の何たるか」すら、学生には教えられないと思っている。教えられるのは自分がやっている(きた)研究プラスアルファ程度のものでしかない。もっとも私は、個別具体的なこと以外には答えられないのが「プロ」の定義である、と思っているので、それで職業倫理的に後ろめたい気持ちはないのだが(まあ開き直りとも言えるが)。
だから教員の懐に入っていこうとする学生は、教員に「自分を理解してもらう」のではなく、寝首を掻いてやる、隙あらば出し抜いてやる、くらいの心意気・緊張感を持って入っていかなくてはならない。そうすると、まともな教員であれば、それ相応の心意気・緊張感をもって歓待してくれるだろう。繰り返すが、「理解」をちらつかせた人間関係は(世間一般的に、といっていいと思うが)まずろくがことがない。「理解を示す」人間の周りを「理解を求める」人間が取り囲むとき、最低のコミュニティが生まれる。そのことは皆、経験的に知っているはずだ。
タイトルを考えているときにあやかってやろうと思っただけで、別に本日のオチにするつもりはないのだが、忌野清志郎の「ぼくの好きな先生」がどんな先生だったか、ここで思い出してみるのは、悪くないだろう。それは「ぼく」を「困ったような顔して」(=理解に満ちた、したり顔ではなく)「口数も少なく」(=饒舌ではなく)「しかる」(=褒めたり励ましたりするのではなく)先生である。さらに、そういう「ぼくの好きな先生」を「ぼくの好きなおじさん」と無碍に言い換えて歌を締めるところにまで、清志郎は抜かりがない。
以上、もっぱら自戒・自警のために書いた次第。