real-life issue

上の娘の小学校をどうするか、である。そろそろ本腰入れて考えないといけない。
以前、ある知人から(彼女は小学校からなんと大学までずっと「京都市立」を通した人だ)「将来、大学に行かせたければ、京都では、小学校から私立に入れなくては絶対駄目ですよ」と言われ、ふーんそういうもんか、たしかにオレも嫁さんも大学行ったし(どちらも小学校は公立)、娘も大学には行かせたいし、だったら私立も考えてみようか、くらいに思っていた。
だが、よくよく考えたら、「将来子供を大学に行かせたい」という目標設定自体が、すでに二十年くらい昔のものである気がしてきた。少なくともこれからの日本では大学を出たところでそれだけでは何のメリットにもならないことは、すでに目の前に広がっている景色から明らかだ。小学校から大学までエスカレーター式の私立に入っても途中でひきこもりになる、いわゆる一流大学を出てもニートになる、あるいはうまく新卒で就職できても入社後すぐに心の病にかかって辞める、そんなケースが身近にざらにころがってるわけだ(いずれも多分に社会構造の問題であり、個々人の努力ではいかんともしがたいが)。で、現状がこうなら、今から十五年後、今四歳の人間が大学に進学する年齢に達する頃にはどうなってるんだ? 一人の人間が幸福に生きるために大学卒という経歴が有効に機能する社会である確率は限りなく低いのでないか。だったら、それを目標にして幼少期を生きるのは時間とお金の無駄だ。
この先、日本はどんどん貧困になる一方である。よくそう語られるが、それは間違いないだろう。少なくとも豊かになることはない。格差社会という過渡期的な仮象で見えにくくなっているが、「ならし」でみれば確実に全体が沈下していく。そこにおいて勝ち組も負け組もない。国内市場は限りなく縮小し、国内での仕事は高齢者向けの医療関係か介護関係しか残らない、日本企業の主な市場(勤務先)は中国とインドになるから、何はなくとも「胃腸が丈夫」な子供に育てておけ(「あなたの孫はインドか中国で生まれます」)という意見もあるし、日本はもう立ち直れないと思う、だから、海外で勉強してそのまま海外で働く道を真剣に考えてみるべきだ(「海外で勉強して働こう」)という論調も最近ではごく普通に散見される。
とにかく、これはある程度はいつの時代でも言えることだが、今後の日本ではますます、自分が育ったように子供を育てては駄目だ、親子ともども失敗する、ということだろう。こと学校(学歴)に関してそうだろう。そういう時代だからこそ「手に職」ですよ、だったら「資格」ですよ、と言うやつがいたら、そいつらこそまず猛省すべきだな。あるいはそいつらは確信犯だ。漢検だ。「資格」こそもっとも国民国家的なものであって、普遍性がないから。EUのケースを見ろと。「手に職」というのも、相当疑わしい概念で(誰か概念史の説明お願いしまーす)社会とのマッチング関係を抜きにして「手につく職」なんてないっつーの。だったら博士学位でも取ったほうがまだしも普遍的だろう(えっ、言い過ぎ? あれっ、universityってのはそういう意味じゃなかったんですか)。
じゃあどうしたらいいかって、分からないんですけどね。なにしろ娘は私とは、時代もさることながら、育つ土地も、性別も、性格も(現時点では嫁さん似っぽい)違うので、ベストな選択はおろか、ベターなものも思い付かないんですわ。将来こうなって欲しいとかもとくになくて、強いていえば、子供を生んで欲しいなと思うくらい(孫が欲しいとかいうのではなく、よろこびを知ってもらいたいという意味)。同性だったらある程度自分を基準に考えられるから(良し悪しはおくとして)少し違うんだろうな。
べつに日本の小学校(文科省的な意味で)でなくとも良いと思っているので、半分ネタで、インターナショナル・スクール(すぐ近所にあるので)について調べてみたが、とてもとても、学費が高くて行かせられない。月に十万以上なんてとても払えない。私と嫁さんの共通の知人(当時も今も国立大学教員)が、かつて神戸のドイツ人学校に二人の子供(両親とも日本人だ)を通わせていて、お金がかかるわ、学校に行かせていないので(という扱いになる)罰金を払えという督促を国から頻繁にもらうわで、大変ですよと言っていたのを思い出したが、よくまあ通わせたものだなと、その他で節約しまくりだっただろうなと、しみじみ感心する(今回ついでにそこの学費も調べてしまったもので)。しかし世の中いろんなお金の使い方があるんですね…。
ちなみに、高いから一瞬で候補から外れたけど、そのKyoto International Schoolは“... engage in a collaborative, transdisciplinary inquiry that sees them identifying, investigating and offering solutions to real-life issues or problems”という部分がいいと思った。まあそう謳ってるだけだとしても、ビジョンとして謳ってるだけ立派。日本の小学校とかも、教えるのは“solutions to real-life issues or problems”だけでいいよな、ほんとに。英語とかも別にいらないから。先述したこの方も言っているように、言葉なんて必要があれば──すなわちそれが“real-life issues”であれば──そのときそれなりに覚えて喋れるんです、覚えても喋らなくては忘れるんです。だから“real-life issues”に対処する方法論さえ身に付けてもらえれば、そのなかに言葉の問題なんてすっかり含まれてしまうんです。もっと言えば、何が人生にとって“real”で何がそうでないかを教えてくれればそれでいいのです。とかいうと、すでに親の思想の押しつけが始まっておりますが。
なお、御近所の人達とこの手の話になると、私の職業を知っている人は、決まって(半ば社交辞令としても)「お子さんはもちろん立命館小学校じゃないんですか?」と尋ねてくる。同じ人からも何度も聞かれるので、もうこれにはこちらも「模範解答」を準備してあって、「いいえ。立命館大学の教員の給与では、子供を立命館小学校に通わせることができないようになっているんですよ」と応えるようにしている。むろん元ネタは、労働(者)の疎外および資本家による余剰価値の搾取に関するマルクスの古典的定義、「労働者は自分で生産した商品をその労働の対価として得られる給与では買えないようになっている」である。もっとも当該のケースにおいて本当にそうなっているかは不明だが(というかそんなこと怖いから分かりたくないです)。そろそろこのネタにも(自分も周囲も)飽きてきたので、新しいのを考えないとな。
今まで自分はこの手の問題をあまり深く考えず、反射神経と文脈依存と妥協と運によって、その都度適当に生きてきたんだけど、これは他人の人生の問題だからな。完全放置、成り行きまかせってわけにもいかんよな。まあ、今こんなに考えていても、あと十年もしたら私の人生にとってどうでもいい問題になってるんだろうな…。そのくせ「オレはやることやったから、後はおまえらに任せた」とか言って。あぁ早く言いたいわ。