こだま→ひかり→のぞみ→いのり

一部の間ではすでに議論し尽くされた感のある、新幹線の新名称についてだが、新たな情報を得たので書いておく。
よく言われるように、「こだま」で音速、「ひかり」で光速ときて、次の「のぞみ」(1992年運転開始)に至って、ついに(というか進歩するなら当然だが)光速をも超えてしまった、われらが新幹線。

その光速より速い列車にどういう名前をつけるか。JRも悩んだのだろう。そこで、のぞみを出してきた。内的世界である。精神論だ。宗教的とも言える。60年代の科学的気分から大きく逸脱して、内側へ向かってしまった。90年代の停滞が見事にあらわされる名前である。当時は気づかなかったのだろう。内的世界に向かう気分は、その三年後に東京の地下鉄でテロを起こすことになる。同じずらすにしても、形あるものにしたほうがよかった。(堀井憲一郎『若者殺しの時代』、2006年)

この堀井氏の着眼点は、きっと多くの人にとって必ずしもオリジナルなものではないが、しかし半ば都市伝説めいたこの問題がこのようにきちんと言語化されていることは重要だと思う(といってもすでに三年前の本なんですけどね)。「形あるもの」っていうけど、例えば何よ、と言いたいけど。
ところで、この本でさっき初めて知ったので、ちょこっと調べたのだが、2002年のフジテレビ系ドラマ「ロング・ラブレター〜漂流教室〜」(もちろん原作は楳図かずお漂流教室』、1972〜74年)の第二話で、未来の新幹線「いのり12号」の残骸が登場するというのだ。不勉強にも(もはや勉強の定義が自分にもよく分からないですが)初耳だったが、これはおそらく楳図の原作には出てきてなかったように記憶する(今は手元にないが何度も読んだので多分)ので、テレビドラマ化するに際しての新たな設定であろう。だとすれば、2000年頃に誰かが考案したものだろうか。
なお堀井氏の文章は以下であるが、「のぞみ」も「いのり」も「社会不安」として片付けちゃうのがもったいないし、両者の連続性と断絶、原作に無い新幹線という要素をあえて付け足したことの積極的意味、時代的状況など、せっかくならもうちょっと何か言って欲しかったな。

崩壊した未来世界に迷い込んでしまうTVドラマ『漂流教室』では常盤貴子窪塚洋介のドラマだ)、完全に破壊された世界に「いのり」という新幹線の残骸がうち捨てられていた。たしかに、「のぞみ」の次に「いのり」という名前の最速列車を走らせているような社会は、早晩、滅んでしまいそうである。あきらかに社会不安を象徴した名前になっている。もちろん、のぞみという名前は90年代の不安の象徴である。

それにしても、「のぞみ」の次に「いのり」。このアイディアはどうだ。もちろん『漂流教室』であるから「未来における過去の残骸」という設定を背負って発案された名称である。その上で、このアイディアはどうだ。私は、うまい、やられたな、ちょっとくやしいなと感じてしまった。すでに2002年の段階では、新幹線そのものは日本人にとって文明的進歩の表象物であることを止めていたと思うので、この名称(われわれが知る「のぞみ」とそれとのズレ、そのズレ方)にすべての表現性がかかっていると言っていいわけで、名称自体もさることながら、わざわざその場面で、原作に無い新幹線をそういうかたちで出す、という演出法に感心する(待てよ、今思い浮かんだのだが、新幹線ネタは『ドラゴンヘッド』からの影響か)。
さて、新新幹線の名称として、どうですか、JRさん? そのままパクってもいいでしょうし、ずらしてもいいでしょうよ。ただし『漂流教室』は内容が内容だけに、パクっちゃうのはスキャンダルでしょうから、ぜひ見事にずらしてください。さて、とはいえ難しいですよね。どうです、この難題を実践的に解決するための産学連携プロジェクトを立ち上げたとして、研究資金の拠出はありうるでしょうか。もし何ならうちでがっつりやりますよ。すごいの考えますよ。
「のぞみ」から「形あるもの」にずらすとして、宗教的方向性を保ちつつ、かつ「いのり」を迂回するとして、例えば「いなり」とかはどうでしょうか。

ちなみに堀井氏の本は、以前書いたように赤木智弘『若者を見殺しにする国』の参照文献の一つで、以前から読まなきゃと思っていたもの。たまたま今晩時間が取れてかつ気乗りがした(他のことをやる気がせずに優先順位が一気に格上げになった結果)ので一気に読了。この新幹線の話は予想外の副産物だったが、このブログで過去に最大の反響を生んだ携帯電話論に通じる議論もあり、なかなか示唆に富む、というより私の琴線にモロに触れる、小ネタが満載の本。この本での携帯電話論は、私の文章よりも時間的に後に書かれたもので、これを読んで私も色々言いたい(言い足すべき)ことが出てきたので、そのうち応答します。