聴覚の座をめぐる近代哲学の伝統(美学会全国大会、於:東京大学)

10月の美学会全国大会(東京大学)で「聴覚の座をめぐる近代哲学の伝統」という題で発表をします。要旨は以下の通り。
そのうち要旨集として会員には配布されると思いますが、どんなことやるのかと数人から聞かれたので、ここに書く次第。ここを見てる人のほとんどは会員でないわけだし。

 かつて中村雄二郎は『共通感覚論』(1979年)で、現代の実験心理学等が説く視覚の絶対的優位に対して、感覚論の古典的伝統がむしろ触覚の優位を説いてきたことを強調し、「視覚の専制支配」を超克しようとした。その後、ジョナサン・クレーリーは『観察者の系譜』(1990年)で、全く別の文脈においてだが、やはり視覚と触覚をめぐる哲学的伝統の再読解を試みた。彼によれば一七、一八世紀の視覚理論では、形而上学的な視覚が特権化される一方、それが現実の知覚世界から浮き上がってしまい、その間隙を埋めるべく「触覚としての視覚という概念」(デカルト、バークリー、ディドロ)が要請された。そこでは視覚と触覚は対立的でなく相互依存的な関係にある。クレーリーが提起した視覚のパラダイムの歴史区分に対してはその後批判も出ているが(山中浩司「感覚の序列」、1999年など)いずれにせよ、近代ヨーロッパの哲学的伝統における視覚と触覚の関係については、整理と考察が今日までかなり進んできたと言ってよい。
 ところがそれに対し、聴覚についてはどうか、と問うならば、古典的感覚論におけるその地位についての歴史研究はまだほとんど手付かずである、というのが発表者の認識である。そこで本発表では、その穴を少しでも埋めるべく、主にヘルダー、カント、ヘーゲルの著作を読解し、五感の編成=秩序が哲学的かつ体系的に構想される際、聴覚にいかなる座が与えられてきたのかを考察する。
 ヘルダーは『言語起源論』(1772年)では「理性即言語」を強調する立場から、聴覚を「精神へ達する本来の扉、他の感官の結合帯」と規定し、人間を「聴覚型の生物」と呼んだ。それに対して、モリノー問題を強く意識した『彫塑』(1778年)(および『批判論叢第四』、1769年)では、彼は触覚を「もっとも根本的な感覚」と呼び、「真実は触覚のうちにこそ存在する」と主張する。つまり彼は二(三)つの著作で、ほぼ同様のレトリックを用いて、一方では聴覚の、他方では触覚の、優位論を展開していることになる。またカントの『人間学』(1798年)の中の五感論では、触覚は「直接的な外的知覚の唯一の感覚」であり「感官のうちで最も重要」と言われる一方で、聴覚は視覚や触覚とは異なり、別の感官を通じた「代替・補足」が不可能であるとされ、その固有性が特権化される。そしてヘーゲルに至っては、『エンツュクロペディー』(1817年)における視覚(触覚)優位説と『美学講義』(死後出版、1835〜38年)を貫く「次元の滅却」の原理が要請する聴覚優位説との間には、埋めがたい溝が存在する。
 近代の哲学における、こうした視覚(または触覚)優位説と聴覚優位説の衝突について、ジャック・デリダは『エコノミメーシス』(1975年)でカントを読解しつつ、それを「自ら話すことを聞く」伝統の頑強さの好例として解釈したが、本発表ではむしろ、ギリシャ的な「光の形而上学」とキリスト教的な「声の形而上学」という、ハンス・ブルーメンベルク(「真実の隠喩としての光」、1957年)が指摘した二つの伝統の対立の近代的残滓としてそれを理解すべきである、という仮説を提示したい。

会期は10月10日〜12日ですが、まだ発表の日は決まってないです。若手フォーラムとやらの枠でうちの院生も発表する(やも知れぬ)ので、本郷における後輩諸氏(名指しちゃうとリュウとかモリ君とかその辺)は宴席の一つでも準備しておかれるように。
昨日は、芸術学関連諸学会連合のシンポジウム京都国立近代美術館であり、行ってきた。
内容については(憶測と愚痴が全開になるので)ここではノーコメント。とりあえず、「芸術から遠く離れて」という自分の今後の方向性・スタンスを堅持するのが吉と再確認した一日だった。〈芸術〉の境界やら〈作品〉の定義やらで一生を棒に振る気は正直、私にはない。そして一生を棒に振れるだけのなすべきことは今なお(そして今日の日本においてはますます)あるわけだが(文科省的な「アート」と「アーツ」の違いとか大問題だろう)、「政治的効果がすべてだ!」とか訳知り風に言ってパフォーマティヴに振る舞えば振る舞うほど、よりいっそうパフォーマンス(生産性)は低下するだろう。まあとにかく怖いモノをみた。というか別に予想外だった訳ではなくて、行く前から薄々分かっていたことで、例年ならわざわざ行かないんだけど、近所でやったから見に行ったまで。以上。
とはいえ、久しぶりの再会あり、新たな出会いありの、きわめて濃密な一日だった。三輪さんとかIAMAS関係者、あと東京芸大の映像の人達(東京時代には縁がなかった)と会えたのもよかった(しかも、昨日私が感じた「ヤバさ」を共有していたのは、彼ら「のみ」であった印象がある…)。
で、この会合とは別件で、初対面の某氏(以前からお会いしたかったフィクション研究者でゲーム研究もされている方)のお宅にいきなり電話をかけて(無理矢理かけさせて?)、二次会の後、深夜十二時過ぎに皆でお邪魔させて頂く。初対面なのに双方グダグダな状態で真夜中の名刺交換。絶品のカレーだのパスタだのシンハービールだのを頂戴し、しかしながら翌日大事な仕事があるので睡眠を取るために(ここに辛うじてオトナの矜持が…)中座して、後ろ髪を引かれる気分で、朝四時に帰宅。久々の学生時代に戻ったような夜遊びモードでした(京都に来てから初めてかも)。自宅をああやってサロン的に開放・解放するのって、もはや今の自分には不可能なだけに、本当に憧れますね。京大的な空間なのかも知れませんが、大好きです。ともすればもろとも廃人ですが、それも込みで。Gain or lose、否 gain and lose、あるいはむしろ gain to lose って感じの集まり。電車の時間とか気にせず、夜でも皆で動けて、すぐに集まれるって、京都のような小さな街ならではですよね。東京だったら昨日のようなプランはネタとしては思い付いても、決して実行には移せん。「じゃあまた今度」がせいぜいオチ。
昨年の京都は今頃もう大分蒸し暑かった記憶があるが、それに比べると今年はとても爽快。今宵も窓を開けてビールを飲みつつ快適に仕事しております。梅雨の蒸し暑さ無しにこのまま夏へと移行してくれたら、今年の夏はいかに暑くても許す。