最近書いたものや喋ったこと

ちょうど一ヶ月ぶりの更新となりましたが、まずは最近刊行されたものから。

立命館大学国際言語文化研究所編『立命館言語文化研究』24巻2号(通巻110号)、2013年2月.
「グローバリゼーションのなかのビデオゲーム
吉田寛「なぜいまビデオゲーム研究なのか──グローバリゼーションと感覚変容の観点から」(pp. 93-98)
Jaakko Suominen.“Videogames in the Globalization: The Case of Finland.”(pp. 99-108)
天野圭二「グローバリゼーションのなかのビデオゲーム──フィンランドにおけるゲーム産業振興の現状と課題」(pp. 109-119)

2011年10月に立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)と国際言語文化研究所(言文研)がタイアップして開催した連続講座「グローバリゼーションのなかのビデオゲーム」に基づく小特集(論文三本)です。いずれコチラのサイトからダウンロード可能になると思われますが、まったく私の管轄外なので時期等は不明です。抜刷やコピー等を希望される方は、私にご連絡をいただければ直接ご対応いたします。
天野さんは愛知の星城大学経営学部)の教員で、北欧諸国のIT産業振興や産学連携をご専門としています。ヤッコ・スオミネンさんはフィンランドのトゥルク大学の教員で、RCGSの客員研究員として2011年に滞在されていた方です。専門はデジタル文化で、とくにビデオゲーム文化における過去の遺産とその再活用が最近のご関心のようです。元を辿れば、先端研修了生の森下直紀さんから天野さんをご紹介され(国際関係学部時代の先輩後輩とのこと)、その天野さんからスオミネンさんを紹介され、その年創設したばかりだったRCGSに客員研究員第一号として受け入れを申請させていただいた、という経緯です。外国から日本に来てゲーム研究をしようとしている人達の受け皿となる(これまでそういう組織が日本の大学や研究所には皆無だったので)というのがゲーム研究センター設立の主要動機の一つでしたので、その想定が早くも的中して些か驚いた記憶があります。
私の論文は短いものですが、グローバリゼーションを理解する上でビデオゲームに注目することがいかに重要かということを感性学者の視点から書いたもので、加えて立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)設立の動機と経緯にも触れています。後者については(口頭ではあちこちで折に触れて述べてきましたし、学内的文書には書かれているわけですが)なかなか「明文化」されて公の目にふれる機会がないので、今後私なりに「重宝」しそうな論文です。

巻頭座談会「オルタナティブな教育の場としての美術館」
服部正+島田康寛+竹中悠美+吉田寛+鹿島萌子
立命館大学生存学研究センター編『生存学』Vol. 6(生活書院、2013年3月)→ [Amazon.co.jp]

美術クラスタの方にはこちら。昨年の夏に、われわれ先端研表象領域のメンバーが『アウトサイダー・アート』の著者である服部正さん(横尾忠則現代美術館、当時は兵庫県立美術館)をお迎えして座談会の記録です。私は「アートワールド」の外の人間として「チョイ役」で参加させていただいたのですが、それゆえというか、それにもかかわらずというか、例によってというか、言いたい放題(笑)です。とはいえ、アウトサイダーアートの定義は「作品の性質」というよりも「作家の意向(作る人がむしろアート志向を持たないこと)」や「マーケット(目利きの存在)」にかかっている、という明快な回答を服部さんからいただき、積年のもやもやが晴れた感じはしたので、参加した甲斐がありました(その辺りの議論ももちろん掲載されています)。一方、博物館と美術館は(日本語以外の多くの言語では同じ「ミュージアム」だし)もっと原理的に接近して行ってもいいはずだ、という私の主張はあまり理解・共有されませんでしたが。私の感性学的研究にとって主要な対象(身体や感覚にかかわる技術や機会)は、美術館よりも博物館の側に属しているし、この座談会の主題である「教育」という観点からも、美術館は博物館の取り組みをもっと見習ってよいはず、と思っているのですが。まあまたそのうち何かの機会に考えます(今日も先ほどまで私の研究室に某市立科学館の方が打ち合わせのためにお見えになっており、科学研究のアウトリーチ活動にゲーム研究者がどう貢献できるか、という話をしていました。「美術館ではなく博物館とタッグを組む」という謳い文句も、これからの感性学の明快な定義としてイイかも、とか思ったりしています)。
ところでこの雑誌、第5号まではAmazon.co.jp等で売っているのですが、第6号はまだみたいですね…。オンラインで買えるようになったらリンクを追加します。
[2013.4.4追記]リンク先を追加しました。
それと、今月最大のイベントというか、もしかしたら今年最大のイベントになる気もしますが、先週までイギリスはノリッジにあるイースト・アングリア大学(University of East Anglia)から招待されて、講演旅行(実際は業務出張でして、そんなに偉そうなものではありません)に行っていました。ヨーロッパも大陸部には何度も足を運んでいますが、実はイギリスという国は初めてでしたので、その意味でも充実の旅行でした。
3月16日にこのシンポジウム(リンク先は同大学内にあるセインズベリー日本芸術研究所)で“The Aesthetics of Video Games: What and How Do We Sense in the Game World?”という発表をしました。同大学の言語コミュニケーション学部(School of Language and Communication Studies)に現代日本文化・現代日本語を学ぶコース(古典的日本文化・古典日本語ではないところがポイント)ができて、日本のポピュラーカルチャーに関心の高い教員と学生がいる、ということが同学部がこのシンポジウムを主催した背景にあります。滞在中、同学部の「日本のポピュラーカルチャー入門」のクラスにもゲスト参加しましたが、“tsuppari”とか“purikura”などの「基礎概念」をしっかり叩き込まれており、こちらが教える前に学生がしっかり「定義」を説明することができるなど、何とも微笑ましかったです(笑)。今回のホステスであるNana Sato-Rossbergさんから教えてもらうまで知らなかったのですが、日本のポピュラーカルチャーについての教科書として世界的に読まれているのはコレだそうです(著者の多くは日本人の研究者です)。日本語ではなく外国語(西欧語)で書かれたものが日本文化の本質とその理解を決定する、というのは大昔からの鉄則ですが、なるほど日本のポピュラーカルチャーもそういうフェイズに入ったのね、という感慨を持ちました。
また18日には同大学の映画・テレビ・メディア学部(School of Film, Television and Media Studies)の教員と博士課程の学生を対象としたセミナーで“User-Centered Design in Video Games: Affordances, Constraints and Tutorials”という発表をしました。UEAのFTMはイギリスの研究ランキングでも四位に入っている優秀な学部であると事前にうかがっていましたが、実際その通りで、Q&Aでは鋭い質問が幾つも出ました。映画・テレビ・メディア学部というのは、日本ではあまり馴染みがないですが、英語圏の大学にはけっこう多く見られますよね。どんなところだろ? どういうディシプリンの人達が多いんだろ?と行くまでは謎だらけでしたが、結果的に、日本で言えば「表象文化論」っぽいというか、まさしく「カルチュラルスタディーズ」のお膝元という印象を受けました(歴史的連続性はよく分かりませんが)。共同研究の話を持ちかけられてミーティングをしたFTMの研究者がいるのですが、その方の専門は映画のオーディエンス研究とのこと。私の発表はノーマンのデザイン理論を(先駆的に、そしておそらくは無意識的に)実現していたものとして日本の初期ビデオゲームを(ハードウェアとソフトウェアの両面から)解剖する、という話でしたが、ノーマンの名前を知っている人に挙手してもらったところ、40人ほどの聴衆のうちわずかに一、二名いるかいないか。その時点で、認知科学系や工学系のコモンセンスがあまりない(というかそういう性格の学部ではない)ということが分かりました。アメリカのFTM系学部だったらもう少し違うはずだと想像するので、お国柄かもしれません。
それ以外にもアドミニストレーションレベルでの折衝(さすがに中味は書けませんが)を持ったり、イギリスやアイルランドの大学で教職に就いている日本人数人とじっくり意見交換する機会を持つことで、学問のみならず、私の人生全体の価値観が大きく更新される旅行となりました。ただし自分一人でレストランやカフェに入る機会がほとんどないくらい、ほとんど毎日(毎食、ときには朝も)誰かと一緒で、その意味では少々肩が張りましたが、これは旅行ではなく出張ですから仕方がありません。
なおゲーム研究については、今(まさしく本日)校正中の論文があって、来月には書店に並ぶはずです。またご紹介いたします。
学内的な事情があってこの四月から超多忙となる予定で、これまで以上にこのブログの更新頻度も減ると思われますが、何か企画をやる(やった)ときや書いたものが出るときなどは、ここでご案内することを最低限自分に課そうと考えています。

『〈音楽の国ドイツ〉の神話とその起源』

本当はこのブログでもいち早く紹介したかったのですが、たまたまイベント等が立て込んだために後手になってしまいました。先日、私の二冊目の単行本となる新著『〈音楽の国ドイツ〉の神話とその起源』青弓社)が発売されました。Amazonなどインターネットショップでは一週間くらい前から買えるようになっており、もう書店にも並んでいる頃と聞いています(自分の目では未確認、近々どこかの書店で見たいです)。
「〈音楽の国ドイツ〉の系譜学」という三巻シリーズの第一巻で、出版社とは今年中に全三巻を刊行するという「約束」を取り交わしております。
振り返ればこの頃から長らく、一種の「出る出る詐欺」状態が続いていたわけで、皆様(とりわけ読者や出版社の)には本当にご迷惑をおかけしました、そしてお待たせいたしました。博士論文のリライトにここまで時間がかかるとは当初自分でも予想しませんでした。ひとえに怠惰の故です。
第一巻はルネサンスから18世紀までという時代設定で、ややアクロバティックさに欠ける、古文書学的な記述が淡々と続く印象は否めませんが、より現代的な観点から〈音楽の国ドイツ〉というテーマを捉えた序章を含みますので、それによって多少は「色がついた」というか「救われた」感があるかなと思っています。でもそうした一見、淡々とした歴史記述の中にも、今日においてアクチュアルな論点や問題がチラチラと出てきますので、音楽史にさほど関心がない方でも、思想や文化全般に関心があれば、それなりに楽しく読んでいただけるのではないかと思って(自信をもって、というのではなく、単に楽観して)います。というよりも、事態はむしろ逆で、「過去のドイツ」のことを語っているように見えながら、その実「この私」の問題関心を語っているにすぎない、と言った方が実状に即しているかもしれず、そのことはすでに博士論文を書いている中で自覚されていました。こういう本は「本場の」ドイツ人には決して書けないだろうと自負していますが、逆に言うなら、この本が提示する見通しは、あくまでも「21世紀の日本人(端的に、私)から見たストーリー(歴史=物語)」なのですよね。情報量の少なさ、より正確にはその「偏り」が、そのストーリーを可能にしているわけで、ド・マンの言い方を借りれば「盲目が可能としている洞察」(これは自分では分からないし、どちらにしても私の場合たいしたものではないですが)に賭けている部分があります。
今の私としては、この本(シリーズ)を「踏み台」にして、ぜひ多くの人に、どんどん「別のストーリー」を紡いでもらいたい。いや、もう少し突っ込んで言えば──自分で書いたことをいきなり否定するようですが──この本を「踏み台」にして紡ぎ出せるような「別のストーリー」は(種類として)それほど可能であるわけではないし、その作業はさほど生産的ではない。というのも、この本を「仮想敵」として「別のストーリー」を紡ごうとすると、実は、その論者が依拠する「パラダイム」自体が、私のものからはズレてくると思われるからです。そして私が本当に見てみたいのは、その「ズレたパラダイム」だったりします(その瞬間、私の仕事が真に「結実する」からです)。誰もやらなかったら(寂しいですから)そのうち私が「戻ってきて」、自分でやるかもしれませんが(笑)。
いずれにせよ、今の(そして将来の)私には絶対にこういう研究はできません(古い外国語を読む能力などは日々使っていないとどんどん減退していく、という点でも)。そしてだからこそ、これは「本」というかたちできっちり残しておかねばならないと考えているわけです。
私は興味関心が(自分でも不安になるくらい)どんどん移り変わっていき、しかもその流れに身を委ねるタイプなので、現在考えていることや喋っていることと、書いて出版することの間には少なからず「時差」があります(もちろん多くの人がそうだと思いますが、私はその度合いが高い方かと自覚しています)。でも、多少「時差」があっても、自分の研究の軌跡をきっちりと本にしていくことは私にとって(自身の「不可逆的変化」を留める意味で)大切であるだけでなく、何よりもそれが一つの社会的責務であるとも考えています。これはとくに最近考えるようになったことです。
というのも、本というかたちで出版することで、その研究へのアクセシビリティが急激に高まるからです。私自身が(「被害者」としても「加害者」としても)経験があるのですが、学会発表原稿や学位論文、学術論文の段階で「手を止めて」しまうと、そういう研究が存在することを(要旨集や他人の言及などで)知って参照したくても、なかなか入手できないんですよね。場合によっては、その人に直接お尋ねしても「すでに資料が散逸してしまっていて、文字化した以上の詳細は分からない」などというケースもある(そのような返事をもらって残念だったことがありますが、わが身を振り返れば、自分にもそういう研究が幾つもあります)。これでは非常にもったいない。また研究には、公的資金が投入されていたりもするので、そうした観点からすれば、もったいないだけではなく、社会的損失ともいえる(もちろん公的資金投入の成果を研究者に「直接的」なかたちで求める考え方には、私は強く反対しますが)。研究者が引退すれば(または引退する前から)資料は散逸してしまいますが、本というかたちにすれば研究成果は確実に後世に残る(なお私はこの点で、自分も利用・活用しているとはいえ、インターネット上のデータアーカイブには強い疑心を持っています)。またもちろん一般読者に読んでもらえる、という点でも本というメディアのアクセシビリティは偉大です。学術雑誌や紀要などは、いくらインターネット上で自由にアクセス可能でも、どうしても「秘教的」存在になってしまいますので(ただしこの状況は目下変わりつつあります。「紀要」が持つ新たな可能性については、いずれ書きます)。そして何よりも、このご時世にあってこうした学術書を出版できる環境があることは本当にありがたいことですので、その意味でも頑張らないわけにはいきません。
今回のシリーズは、そんなことも考えて取り組んでいます。第二巻は、バロック時代のヨーロッパで(とくにドイツを中心に)流行した「混合趣味」の盛衰と、ヘルダーらによる「民謡」理念の台頭に光を当てる予定で、夏頃にはお見せできればと考えています(一応すでに入稿済み)。目下、第三巻を鋭意執筆中です。

「アカデミズムの使い方──越境する知と多様化するキャリアパス」

もう明日に迫り、随所で広報も打ってきましたが、主催者の一人として一応ここでも告知をば。

立命館大学大学院先端総合学術研究科 シンポジウム
「アカデミズムの使い方──越境する知と多様化するキャリアパス
日時:2013年2月24日(日)14:30-18:30
場所:立命館大学 衣笠キャンパス 創思館カンファレンスルーム
(参加費無料・参加資格無し)
主旨:現在および将来の文化とその産業にとって、大学におけるアカデミズムと、そこに収まらない研究・批評・表現が果たすことができる役割とは、何なのか。大学をとりまく状況の急変のなかで、人文・社会系を学んで/学びつつ生きていくとは、どういうことなのか。大局的な未来像の提示と、具体的なキャリアパスの検討を往還しつつ討議する。
登壇者:宇野常寛(評論家)/大野光明(立命館大学日本学術振興会特別研究員)/千葉雅也(立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授)(司会者)/西田亮介(立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘准教授)
→公式サイトはコチラ
→フライヤー(PDF)はコチラ
→当日のUSTREAM中継サイトはコチラ

私は企画責任者として開会前にご挨拶をさせていただきますが、たいしたことは喋りません。内容についてはさほどタッチしておらず、完全な裏方として、司会の千葉さんを初めとする登壇者の皆様に全面的にお任せしてあり、私個人としてはむしろ、今後の大学院教育のあり方や自身の「身の振り方」などを考えるために、大いに「勉強」させていただこうと考えております。
「アカデミズムの未来」を構想する上で、私はもはや「十分に若くない」ことを自覚しており、「老兵去るのみ」(裏方に回るのみ)で出る幕はありません。そして今回のシンポジウムの理想的な受け手として想定しているのは、さらにずっと若い世代、すなわち近い将来アカデミズムに入ってこようとする(そしておそらくこのままでは入ってこない、あるいは大学を「素通り」してしまう)大学一年生や高校生などです(実際には大学院生以上の参加が多いことが見込まれますが、それはそれとして)。今回、意識的に「朝生」クラスの登壇者を揃えたこと、そしてUSTREAMで同時中継を行うのもそのためであり、京都に来ることができない人達、あるいはそもそも大学という場所と(まだ)縁がない人達にこそ、ぜひ聞いて欲しいと願っています。
(なお、私がエステティックスを「感性学」として再構築したいと考えている、その動機の「宛先」は「外部」の人達、主として「これからこの世界に入ってくる人達」(若者)に置かれています。将来この世界に入ってくる人達にとっては、「美学」というよりも「感性学」としてエステティックスを捉えた方が、学問としてのやり甲斐や魅力が大きいだろうと確信しているからであり、すでに「同じ舟に乗っている」人達(大学院生以上の研究者)への影響やそこからの(ありうる)反発などはそれに比べれば些細なものと考えています。あまりそこには目線を置いていません。むろん意気投合してくれる仲間がいれば歓迎しますが、同じ業界の中でチマチマつっつきあっていては全体として先細るだけだし、色々な意味で「緊急事態」である今は、なおさらそういう場合ではないだろう、と。)
というわけで(だいぶ飛躍しますが)自分の中で勝手に作った(さっき風呂の中で思い付いた)明日のキーワードは「誘惑 seduction」です。誘惑というのは基本的に「不謹慎」な「共犯関係」であり、また誘惑「する」側と誘惑「される」側は、まったく違う欲望と利害関係、経済原理で動いています。また誘惑されることは、自分の身も心も引っくるめて惹き付けられるということですから、善悪・正誤の判断もそこでは宙づりになっています。にもかかわらず、われわれは日々誘惑されているし、ときにはしてもいるし、誘惑は人を動かす原動力として現実にかなり機能している。今振り返れば私がアカデミズム(というと大袈裟ですが、研究の世界)に吸い寄せられたのも、そうした「誘惑」の力によってだったと思います(もちろん、その際には研究室・学会組織や師弟関係、奨学金といった制度的側面が重要条件となっており、そうした「値踏み」の上で誘惑は成立します。これは恋愛などと一緒)。また誘惑というのは(これも恋愛と同様)「絶対的」関係と見せかけて、その実、まったく「相対的」なものですから、「アカデミズムの誘惑」も、今日のわれわれを取り巻くその他の「誘惑」との力関係の中で考えていかなくてはなりません。誘惑の力が大きいところには優秀な人が集まってきて盛り上がる、それが小さいところからは人が去って行って(スカみたいな人だけが残って)寂れる、それが世の当たり前の原理です。誘惑の力の前では、「既得権」による「囲い込み」など無力です。いくら制度だけ作っても肝心の誘惑がなければダメということです。しかしながらその一方、誘惑というのは(それこそがもっとも)「世俗的」原理であり、何ら「気高い」ものでも「禁欲的」なものでもありません。快楽や承認、自尊心、スリル、見返り、報酬といった平俗な価値こそが、誘惑に力を与えているわけです。「ピクリ」とこなくてはダメなのです。従って「隠遁せよ」「自己抑圧せよ」「黙ってついてこい」とかいうのは、基本的に「誘惑に失敗している」人がいうセリフだと私は考えています。その意味で、誘惑は「ルール」や「制度設計」に大きく左右されます(それが〈ゲーム〉だとは私の立場からは口が裂けても言いませんが)。アカデミズムも人の動きによって作られる以上、誘惑というのは(なかなか把握・モデル化しにくいにせよ)無視できない重要なファクターだと思います。その辺りのことを頭の片隅に置きながら、明日は臨みたいと思っています。会場でまたはUSTREAMを通してお会いする方々も、そうでない方々も、皆様よろしくお願いします。

まちの居場所シンポジウム(2月20日〜21日)

「まちの居場所シンポジウム」という国際カンファレンス企画が、私が所属する立命館大学大学院先端総合学術研究科の主催で、2月20日(水)と21日(木)の二日間、立命館大学衣笠キャンパスで開催されます。私は二日目の最後の「総合討論」で司会を務めます。

第9回先端総合学術研究科国際コンファレンス
「まちの居場所シンポジウム──カタストロフィ後の回復力と可塑性」
日時:2013年2月20日(水)13:00〜18:40
   2013年2月21日(木)9:00〜18:00
会場:立命館大学 衣笠キャンパス 創思館カンファレンスルーム

 デリダは「匿名の到来者」を身分や資格を問わず歓待することを、「無条件の歓待」と呼んだ。「まちの居場所」は、人々を既存のさまざまな制度の物理的・精神的な囲い込みから「逃し続ける運動」(例えば、一時避難所)としても注目される。
 現実には、「まちの居場所」は、さまざまな地域で、さまざまな姿で自主的に生まれた。高齢者の社会的孤立を防ぐ場として、困難を抱える若者支援の場として、地域生活を活性化する場として、生まれ、育まれ、変化を遂げ、つながりあっている。本企画の目的は、カタストロフィ後の回復力(Resilience)と可塑性(Plasticity)という視点から、異なる関心をもつ人々が集い、交流する場としての「まちの居場所」の役割と意義を再考することにある。
 今回、国内の気鋭の研究者にくわえて、英国スコットランドのアバーディーン大学よりRitu Vij博士を迎え、国際カンファレンスとしてこの企画を開催することになった。同博士は、2日間の会期全てに参加し、2日目に特別講演を行う予定である。

(※以下は吉田が参加するセッション)
2013年2月21日(木)16:20-18:00
総合討論(General Discussion)
司会:吉田寛
問題提起:「まちの居場所」をどう読むか? (How Should We Understand "Places of Sociality"?)
ポール・デュムシェル"Conclusion to Social Bonds and Freedom"
天田城介/立岩真也後藤玲子

公式サイトはコチラ、フライヤー(PDF)はコチラです。
京都市京都府からの後援を受けています。学外からは(私がお名前を認知しているレベルでは)阿部真大さんや酒井隆史さんなどの社会学者の方も来られます。
まちの中の「居場所づくり」、あるいは「まちづくり」そのものと、大学および研究者がどのように関わっていけるのかを、じっくり考える場になりそうです。以前、私がtwitterで「ぶち上げて」それなりに議論がはずんだ「哲学工房」(「〈哲学者〉が24時間スタジオの一角に詰めて、ものづくりをサポートする」云々)なる構想も、一つにはこうした文脈や土壌(そのような問題意識や研究テーマを持つ人々と日々接していること)の上から出てきたものでした(他にも「つくるビル」という「リノベーションアトリエ」のオープンや、つい先日予算案が公表された京都市の「文化芸術コア・ネットワーク」事業が立ち上がった(私もメンバーに入っています)ことなど、別のきっかけもあるのですが)。基本的に「座学者」(ザ・学者では非ず)であるはずの私も、こうした世の中の動きやニーズに積極的に対応していかなくてはならない、そんな時代や状況になってきたのかもしれません。また私が(哲学/認知科学/工学に跨るディシプリンとして)構想している「感性学」は、生活環境やものづくりと密接に関わる学問ですから、(ゲーム以外の)「現場」を持つことは、自分にとっても有益かなと思っています。もっともここでの「現場」というのは、世の中にはどのようなニーズや課題があり、自分の研究がどのようなところでどこまでお役に立てるか(立てないか)を知る上での対話・情報交換の場、という程度の意味でしかありませんが。学問・研究は「サービス」ではありませんからね(この辺りは専門分野や立場によっても意見が分かれそうなところなので、カンファレンスの場でも話題にした方がよさそうですね)。

「視覚的怪物」の擁護のために

視覚像(イメージ)は、言葉(概念)によっては表現不可能な、異種混交的(ハイブリッド)な怪物を描き出すことができる。
レッシング(『ラオコーン』)は、詩人が「偉大なもの」として描く存在も「画布の上では化け物じみたものになってしまう」と言った。よって、視覚像を「市民的法律の支配下」に置かなくてはならない、と考えた古代ギリシャ人は正しかったのだ。
詩人はラオコーンに「絶叫」させてよいが、造形芸術家はそのように描いてはならない、とレッシングが言うのは、絵画や彫刻が「醜さ」や「嫌悪」の領域に容易に踏み入ることを警戒したためであった。絵画は詩に比べて「幻惑のあらゆる手段」で優っており、詩(言葉)によって馴致する以外に、「視覚の暴走」を止める方法はないからだ。
だがそのことは逆に、言葉(概念)によっては表現できず、視覚像によってのみ表象可能であるような、おぞましくグロテスクな〈真実〉がある、ということを意味しないだろうか。それは、あらゆる概念的囲い込みと法的支配を免れるような、視覚的〈真実〉である。
例えば、ジェイ(「正義は盲目でなくてはならないのか?」)が取り上げた、二つの顔を持つ女神ユスティティアの像(「地上の正義の肖像」)は、そうしたものの典型だろう。片方の顔は目隠しがされたまま、天秤(規則に従った不偏不党の計算の隠喩)を持つ手の方を向いている。もう片方の顔は目を見開き、剣をかざす手を見つめている。そうしたハイブリットな怪物である。視覚が見出す「差異」に固執しては公正な判定が下せない、だからユスティティアは盲目である(代わりに天秤を持つ)必要がある。だが他方で、抽象的規則・法の「盲目」性を批判し、一般性に還元不可能な「差異」と「個別性」を見つめようとする「目」が、「錯覚」に陥っていないという保証はない。「地上の正義」というのはそうしたアポリア弁証法の中でしか思考されえず、それを一般的概念で指し示すことはできない。それは「視覚的怪物」のかたちでしか、この世に存在しえないのだ。

この「視覚的怪物」の存在は、われわれに少なくとも二つのことを教えてくれる。
第一に、像というものが一般的概念には還元不可能であること。すべての視覚像は過剰なまでの「個別性」と「差異」を備えている。「似ている」ということは「違う」ことでもある。従って厳密に言えば、像においては「AがBに似ている」という「主客」の階層関係は実は成立していない。「知覚するもの」と「知覚されるもの」の間の「受動的な親和性」、それをアドルノ=ホルクハイマーはミメーシスと呼んだのだが、それはすべての視覚像の関係にあてはまる(同一でなくてもよい、という点にこそ、「像を描く自由」(後述)が存在する)。「等価」で「同一」の関係を持った複数の像があるかどうかはまったくもって疑わしいし、いわんや言語(概念)によって──「○○を描いた絵」という言い方で──記述・同定できる像など一つも存在しない。
第二に、像というものが、法(言葉)による管理・監視を行う側にとって、つねに厄介な代物であるということ。画家にモデルをより美しく描くことを命じ、より醜く描くことを禁じたテーバイの法律。キリスト教の歴史の中でたびたび起こったイコンの禁止と偶像破壊。それらを、古代の異教徒や狂信に駆られた人々の無知蒙昧な行為として笑う権利は、われわれにはない。
ヨーナス(「ホモ・ピクトル、あるいは像を描く自由について」)は、人間の本質、すなわち人間をそれ以外の生命体(動物)から区別するものとして「像を描くこと」をあげた。「言語」や「発話」や「思考」は、もしかしたら人間以外でも持っているかも知れない。またそれらをもって人間と動物を区分しようとする場合、「言語」とは何か、「思考」とは何か、という二次的な問いが生じてしまい不適切である。ヨーナスの考えでは、ただ「像を描く」ことのうちに、類似の知覚/作為・製作/抽象化・図像化/時間や運動の固定化といった、すべての「人間的」能力が含まれているのだ。そう、われわれは「ホモ・ピクトル(描く人)」なのだ。
そしてヨーナスは、人間の本質である像を描く能力を、一貫して「自由」という観念に結び付けて理解している。複雑な対象を「単純化」して描く自由、立体物を二次元に「変換」して描く自由、任意の要素を「強調」するカリカチュアの自由、これらはすべて「人間」の定義にかかわる(他の生命体には備わっていない)「自由」なのだ。そして彼は──「真理」にあまりに忠実であったためか──付け加えることを忘れたが、ここには「怪物を描く自由」も含まれていると考えなくてはならない。「像を描く自由」というのが、自然界(動物)と人間のあいだの裂け目、世界(神)と人間のあいだの裂け目に生じたものだとするなら、「視覚的怪物」を作り出してしまう自由こそが、ホモ・ピクトルたるわれわれのもっとも「逃れがたい自由」ではないのか。「像を描く自由」に比べれば、信仰の自由や思想の自由などは、せいぜい「うわっつら」のものにすぎない。
「視覚的怪物」を生み出す「リスク」──それは逃れがたい──まで含めて、われわれは「像を描く」自由を引き受けるのか、それとも手放すのか。それは、われわれが動物を超える「自由」を持つ勇気があるのか、それともないのか、と問うことと同じである。形而上学的どころか、ほとんど「神学的」に聞こえるかもしれないが──なにしろヨーナスも「ハイデガーと神学」の著者であるから──あえて言っておくと、これは他のどこでもなく、まさしく今ここでわれわれに突き付けられている問題なのだ。

世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG)

第3回世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG 2013)に出ます。
文化庁メディア芸術祭関連事業のサイトはこちら
ICOMAG 2013のサイトはこちら

第3回世界メディア芸術コンベンション

「異種混交的文化における批評(クリティーク)の可能性」
異種混交的文化における「批評」をテーマに、国内外の9名の哲学、社会学音楽史、芸術学などの研究者によるパネルディスカッションやラウンドテーブルを開催します。文学や美術といった芸術領域においてきわめて重要な役割を果たしてきた「批評」は、現代的状況にふさわしい新たなスタイルを見出せるのか?そうした新しい批評のスタイルとはどんなものでありうるのか? この会議では、そうした問題をめぐる率直な議論を交わします。

会期:2013年2月16日(土)〜2月17日(日)13:00〜17:00
会場:政策研究大学院大学 想海樓ホール
登壇者:エルキ・フータモ、吉岡 洋、室井 尚、大澤 真幸、岡田 暁生、加須屋 明子、佐藤 守弘、吉田 寛、吉村 和真

二日間にわたって四つのセッションが行われるのですが、私が参加するのは以下です。

≪セッション3≫2月17日(日)13:00〜15:00
テーマ「異種混交文化の批評的ポテンシャル」
講演1:エルキ・フータモ「メディア考古学──〈進歩〉の批評的解体」(仮)
講演2:大澤真幸 「異種混交文化と新しい〈批評〉の可能性」
ディスカッション
【パネリスト】エルキ・フータモ/吉村和真吉田寛佐藤守

ちょうど昨年の今頃は、メディア芸術部門会議を企画していたのですが、今年はその会議はありません。その代わり、というわけではありませんが(事業としてもまったく別ですので)今年は世界メディア芸術コンベンション(ICOMAG)に出ることになりました。テーマは「異種混交的文化における批評(クリティーク)の可能性」です。
昨年はゲーム部門を企画する側だったのですが、今年は完全に呼ばれる側である点、また今回は打ち合わせの段階でもとくに役割・立場が固定されておらず、セッションのテーマ「異種混交文化の批評的ポテンシャル」をめぐって自由な発言が求められている点が、昨年とは異なります。
企画する側や聴衆の側からみれば、これまでもメディア芸術祭に関わってきた私が入っていることにとくに違和感はないのかもしれませんが、最近、芸術(アート)の世界にはなるべく近づかないようにしており、「エンターテイメント」という枠組みでゲームが評価されているフェスティヴァルだから、まあ何とかお役に立てるかも、というスタンスでメディア芸術祭にかかわってきた私としては、「文化」や「批評」というのはけっこう難問です。
とにかく私は、
「ポピュラーカルチャーも十分に成熟した〈文化〉である」
「ゲームは日本が誇る〈文化〉であり、ひょっとしたらもはや〈芸術〉の域に達しているかもしれない」
といったロジック(レトリック)を禁じ手にしているのです。そうした(これまでも延々繰り返されてきた)正統性争いには飽き飽きしているし、基本的に無価値で下らないと考えているからです。そういうエンパワーメントを必要とする人々や業界の事情は理解しますし、その存在は認めますが、それは勝手にやって下さい、私を巻き込まないで下さい、といったところです。
ところで、そういうロジックは、
「どんなに低俗なものでもガクモンの対象にすると深い考察が得られますよ」
「うちの大学の売りは、あなたが興味をもつものすべてを学べることです」
といったかつてのニューアカ的な論理を髣髴させます。
そういうのを私は「アカデミズムにおける位置エネルギーの法則」と呼んでいます。「高尚な大学(教授)」が「低俗な文化」に手を伸ばす、というだけで「価値」が発生するロジックだからです。そういうものこそ、最悪の「既得権」ではないでしょうか。自らの「高い」位置「だけ」を「売り物」にしているからです。ただしそれは当然のことながら、自らの立場を「切り崩す」ことでエネルギーを発生させてきたわけで、その結果、今や大学(教授)に「文化的権威」などまったく残っていません。そんなもの、きれいさっぱり無くなってしまいました。自らすすんで切り崩してきたわけですから、当然です。たしかに昔は「位置エネルギー」だけで食っていけたのかもしれませんが、それは期間限定の話であって、もはや大学はエネルギーを発生させるような「高さ」を持っていません。それなのに、大学がいまだ「高尚」な場であると勘違いして(偽装して)、「何と大学でもゲームが研究できます!」などと言うのはただのバカです。当の私自身がそのように思われてバカにされている可能性は否定しませんが(笑)、少なくとも私はそうしたロジック(レトリック)を無効と考えているのです。「位置エネルギーの法則」ではこの先、大学は立ちゆかないだろう、これからはやはり「運動エネルギー」が必要だろう、と(笑)。
話を戻しますが、今あげた例の中の「大学」の代わりに、「美術館」や「国家(文化行政)」を代入しても、同様な「位置エネルギーの法則」が成立します。それは見方を変えれば、文化や芸術に対する「外的な」権威付けです。どんなに低俗に見えるものでも美術館に収蔵されれば、あるいは国家の助成を得られれば…というわけです。それは「いつか来た道」です。
ですから、せめて「批評」は、それがまともな存在価値を持つものとして機能するならば、そうした「外的な」権威付けに抗ってもらいたいな、と思っています。でもそういう「批評」観というのは、きわめて「ロマン主義的」であり、「芸術の自律性を確立すべし」というモダニズム的立場と一体何が違うのかと問われれば、自分でもすぐには答えられません。
理想的な「批評」があるとしたら、それは「外的権威付け」に対する「内的権威付け」を行う(例えば、その作品をしかるべき芸術ジャンルや歴史の中に登録する)だけではなく、「権威」そのものを解体するものかなと思いますが、そこから先は、私には理論化は無理ですね。また、あなたの考える「成功した批評」の例をあげて下さい、と言われてもあげられません。当日までもう少し考えますが。
繰り返しになりますが、私は、ある対象が「文化」であるかどうか、「芸術」であるかどうか、あるいは正当な「文化」や「芸術」がいかなるものであるか、といった議論に巻き込まれて、人生の時間を一秒でも無駄にしたくはないのです(むろんそこから簡単に逃れられるとも思っていませんが)。そんな(小文字の)政治をやるくらいなら、(大文字の)〈政治〉をやった方がマシだ、と思っているくらいです。ですから「批評」という装置が、そうした(小文字の)政治に絡み取られるような傾向──「批評がきちんと確立されていない領域は、やはり文化としては二流である」といった──があるなら断固反対します。
こんなネガティヴなことしか考えてなくて大丈夫かな、オレ(笑)。
[2013.2.17追記]
結局は「〈批評〉するメディアとしてのゲーム(Video Game as Self-Critical Medium)」というタイトルのもと、ベンヤミン/スーパー(ペーパー)マリオ/マクルーハンという「三題噺」を作りました。各パネリストの役割・配置上(やや強引にでも)批評とつなげるかたちでゲームネタを入れた方がよいだろうと判断したからですが、それで正解でした。短いプレゼンテーションでしたが、その後のディスカッションの中でもたびたび「回帰」する話題が提供できましたし、終了後にうかがったところフロアの反応も上々でした。

パズルからみたゲーム(RCGS定例研究会、12月14日)

立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)の定例研究会が明後日(14日の金曜日)に迫りました。
今回は「ビラがパズルの人」として有名な東田大志さん(京都大学大学院人間・環境学研究科)をお呼びして、「パズルからみたゲーム」というテーマでご発表をお願いしています。
学外の方の当日参加も大歓迎ですので、是非とも多くの方にお越しいただければと思います。

立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)2012年度第四回定例研究会
日時:2012年12月14日(金)17:00〜19:30
場所:立命館大学衣笠キャンパス)学而館2階・第3研究会室

「パズルからみたゲーム」

発表者:東田大志(ビラがパズルの人)(京都大学大学院人間・環境学研究科)

今回はパズル学を専門とする日本でも珍しい(唯一の?)大学院生、東田大志氏
(ビラがパズルの人)に「パズルからみたゲーム」というテーマでご発表いただ
きます。
パズルとゲームの歴史的関係や境界問題などを考える「理論編」と、東田氏がこ
れまで開発やプロデュースに関わってこられたパズルの作品や商品をご紹介いた
だく「実践編」の二部構成で行います。

【発表者より一言】パズルとゲームはよく似ていますが、定義の上でも、また歴
史の上でも異なる点が数多く見られます。パズルとの比較を通して、ゲームの理
解を深めていきたいと思います。
RCGS公式サイト

以前から「芸術に浸透するパズルのルール」(『あいだ/生成』第1号、2011年)という論文等でそのお仕事を拝見しておりましたが、東田さんとは先日の美学会全国大会で初めてお会いすることができました。その時には、パズルは歴史的に「試験」制度と結びついてきた、パズルは本来「孤独」な遊びであり、対戦や競争の要素を入れると途端に「ゲーム」になってしまう、などの興味深いお話をうかがい、たいへん感銘を受けました。
ご自身でもパズルの本を出版されたり、作品(というか商品というか)をプロデュースしたり、テレビ番組に出演したりと、たいへん精力的に「パズル界」(というのがあるようですね)でご活躍されています。哲学・美学系の大学院博士課程で研究活動をしつつ、そうしたご自身のフィールドをお持ちである、という点でも稀有な存在だと思います。その辺りのこともお聞きできたら面白そうです。
なお当日は「理論編」と「実践編」の二部構成で行う予定です。理論編ではパズルの歴史や現状、ゲームとの共通点や違いなどをお話しいただき、実践編では彼がこれまでプロデュースしてきた作品や現在の活動についてご紹介いただく予定です。
パズルについて考えるということは(私自身もそうですが)滅多にない機会だと思いますので、ぜひ多くの方にお越しいただければと思います。ゲーム研究センター主催の研究会ですが、ゲームにまったく興味がない方のご参加も歓迎いたします(パズルファンとゲームファンの棲み分けがどうなっているのか、などむしろこちらがうかがいたいことがたくさんあります)。