リマスター&オーセンティシティ問題再訪

日本ポピュラー音楽学会JASPM)の第24回全国大会が今週末(12月8日〜9日)に武蔵大学(江古田キャンパス)で開かれます(→JASPM24(第24回日本ポピュラー音楽学会年次大会)のサイト)。
で、参加予定もないし、そしてそもそも学会員でもない私が、どうしてここでそんなことを書くかというと、この大会のワークショップ「ポピュラー音楽の美学と存在論──今井論文をめぐるオープン・ディスカッション」で、私が過去に論じたことがある「リマスター」の問題が取り上げられそうだからです(詳細は増田聡さんのサイトを参照)。
リマスターについて私は二度ほど論じたことがあります。

吉田寛「2007年の音楽シーン──音=音楽の所有と管理をめぐるポリティックスの諸展開」『artscape[アートスケープ]』(2007年2月)(→artscapeのサイト)
吉田寛「われわれは何を買わされているのか──新リマスターCDから考えるビートルズの「オーセンティシティ」」『ユリシーズ』No. 2(2010年4月)(→Google Document

(ちなみにココのリストは商業誌に関しては網羅的ではないので、上記の二つは載っていません。)
とはいえ「論じた」というほど大袈裟なものでもなく、日頃リマスター問題に(消費者として)悩まされているロック・ファンの立場から、最近の「リマスタービジネス」(という言葉があるかは知りませんが)をちょろっと冷やかし、その中で「指揮者としてのリマスターエンジニア」説(前者)や「複数のオーセンティシティの衝突」説(後者)という見方を提示してみたにすぎません。美学や音楽学等の先行文献をきっちり押さえて考えていたわけではありませんし、その後もそれを深める作業をとくに行ってきませんでした。他方で、昨年頃からジャズ・ファンとしても諸々のリマスター版(RVGなど)に手を染めて業ばかり深めております(笑)。
そんな中で今回このワークショップの主催者の方々が「今さら」私の書いたものを読んで(読み直して)くれていると知ったものですから、驚きました(後者はそれを知って慌ててアップしたものです)。作品概念やリミックスについては色々あっても、リマスターについては少なくとも日本語で手近に読める文献がないみたいですね。どちらもエッセイ程度のものですが、考えるきっかけくらいになってもらえれば幸いです。
なお後者の中で「オーセンティシティの基準は「対象」の性質ではなく、実はわれわれの「内側」にある」と「言った音楽学者がいる」と書きましたが、これはリチャード・タラスキンのことで、テキストは"The Limits of Authenticity" (1984) です。もともと『Early Music』という古楽の雑誌に出たもので、今では彼の著書『Text and Act』(1995)で読めます。数日前に久しぶりに読み直しましたが、「音楽の自律性」の主張者には「抽象的内的連関」派と「物理的音響」派の二つの流派があり、前者はグールドやワルター・カルロス(「スイッチト・オン・バッハ」)らで、後者はケージや「正しい楽器」に固執する古楽器奏者らである、などとジャンル不問に斬りまくっていて、面白いです。なおタイトルにある「Limits」は「限界、境界」ではなく「(有効)範囲」の意味です。
リマスターと作品概念、オーセンティシティの関係についてはここ数日twitter上でも幾人かと議論してきましたが、いろいろ面白い問題が含まれているので、ぜひ当日の議論で深めていただきたいと思っています。今井晋さんの「On Authenticity 正統性について」と題されたこのブログエントリも有益な情報を含んでいます。
最近では私は、もっぱら認知や情報処理の方向から感性にアプローチしているために、観念的(形而上学的)視点がすっかり抜け落ちていますが、オーセンティシティは今日の音楽文化を作り上げているロマンティック・イデオロギーの一つとして「掘りがい」のあるテーマだとあらためて思いました。

新潟遠征

今週末から一週間ほど新潟方面に出張します。
まず土曜日に東京で先端研学生の結婚式(実は教員として「学生」の結婚式に出るのは初めてかも。出たのを忘れてたらスミマセン)に出席した後、日曜日に新潟大学「間主観的感性論研究推進センター」の公開研究会「感性と心理」(→コレ)で発表し、その日は長岡に移動して一泊し(温泉宿らしい!)、翌月曜日は長岡散策(陶芸実習があるらしい)&少し休養した後、火曜日から金曜日まで新潟大学人文学部で「美学」の講義を行います。
講義は「錯覚(イリュージョン)の感性学」という題目の下、錯覚をめぐる哲学・科学思想史(エウクレイデス、アリストテレスからデカルト、ロックあたりまで)、十九世紀後半から今日に至る、生理学・心理学的な錯視・錯聴研究の動向と成果を(とくに近年の諸発見を中心に)取り上げます。また前者に関連して、共通感覚論とモリノー(モリヌークス)問題を個別主題として掘り下げます。この両者については以前から一度自分なりにきちんとまとめたいと思っていて、文献だけは揃えて(読まずに積んで)いたので、今回の錯覚論がちょうど良い機会・文脈となりました。
なお当初の予定では「アートとイリュージョン」の話を入れよう(むしろ全体の軸にしよう)と思っていたのですが、そしてあわよくばビデオゲームの問題にまでつなげたいと思っていたのですが、今回調べながら考えた結果、遠近法の理論と歴史(当然かなりの研究蓄積がある)や、リアリティに関する最新の認知科学の議論をきちんと踏まえないと話にならないことが判明したので、今回は外しました。
(しかしながら、アートを「錯覚(イリュージョン)の技法」として捉え直すというゴンブリッチ的観点は、今なお魅力的です(というより、彼の問題意識を誰も継承していないように見える)。この観点からアートにアプローチすることは、私の感性学の構想にとっても不可避かも知れないと予感しています。またそれは「(芸術の学としての)美学」にとっても重要なはずで、今パッとあげるだけでも、「芸術(美術)は自然をもっとも正確に写し取る技術である」と称揚する一方、「芸術は自然以上に人間を上手に欺くことができる」という明らかなパラドックスを隠蔽しつつ、その上に近代的芸術概念を構築したレオナルド・ダ・ヴィンチや、「自然」と「芸術」を高度にトリッキーな論理で──「天才」を媒介にして──結びつけた(言い換えれば、ダ・ヴィンチとは違うかたちでパラドックスを隠蔽した)カントの名が思い出されます。ただしこの辺りは美学史や芸術理論を専門とするどなたかにお任せしたいところ。)
「美学」という科目を担当するのは本当に久しぶりである上に、ここ数年は(たまたま)本務校で講義科目を持っておらず、「貯金」もあまりないので、こういう機会にこそ勉強せねばとごりごりインプットしました。後はうまくアウトプットできるかどうかです。
新潟大学シラバスサイトはココです。
振り返れば、昨年も日本ドイツ学会に呼ばれて新潟に行きました。新潟はその時が初めてだったのですが、これで二年連続でのご縁となりました。本当はもっとゆっくり羽を伸ばしてきたいのですが、週末に子どもの運動会があるためにトンボ返りになるのがたいへん残念です。行事の秋だから仕方ないですね。
新潟の皆様、どうかよろしくお願いいたします。

『ドイツ研究』第46号

吉田寛「混合趣味の衰退と民謡の発見──18世紀ドイツ音楽とナショナル・アイデンティティ
日本ドイツ学会編『ドイツ研究』第46号、2012年3月31日、pp. 19-33.

以上の論文が出版されました。
内容的にはそのうち出る(はずの)ドイツ音楽論シリーズの第二巻に(より詳細なかたちで)含まれる予定のものです。後半は(日本語ではけっこう珍しいかも知れない)ヘルダー論です。
最近ではすっかり落ちぶれていて、こうした学会誌論文は年に一本書くか書かないかになっていますが、やはり学者の本分は論文にあると思うので、これからも地道に色々な学会誌に投稿していきたいと考えています。
抜き刷りのようなものはいただけないようですが、自分でコピーなりデータなりを用意しますので、ご関心の向きはお知らせ下さい。
もちろん雑誌を購入していただくのが一番ありがたいですが。
Amazon.co.jpでの購入はコチラから。
なおこの雑誌の前号には、私の『ヴァーグナーの「ドイツ」』の書評(江藤光紀氏による)が載っています。

日本音楽学会西日本支部例会(4月15日、大阪大学)

もう明日に迫りましたが、以下のような企画を行いますのでここでご案内です。目下、公演の草稿を読みつつ、学生にもお手伝いいただいてセミナー用の資料を作成中です。
テーマは「音楽作品の同一性」と「演奏の多様性」の葛藤をどう解決するのか、という比較的古典的な問いです。ただし、その中で色々な考え方や理論、事例が紹介・検討されることで、今日的でかつ「間口が低い」議論が展開されますので、音楽の作品と演奏の関係を哲学的に考えることに日頃慣れていない(が関心がある)歴史家や演奏家の方にもたくさん参加していただきたいです(私自身も自分の土俵ではありません)。
非会員でも参加できますので、お気軽にどうぞ。

日本音楽学会西日本支部第7回(通算第358回)例会
日時:2012年4月15日(日)午後2時〜午後4時
場所:大阪大学豊中キャンパス 文法経講義棟1F 文13教室
[特別講演&セミナー]
講演者:アントニー・プライヤー(Anthony Pryer)(ロンドン大学ゴールドスミスカレッジ 音楽学部講師・歴史的音楽学科主任)
題名:「音楽による作品、音楽のための作品──演奏解釈と音楽の存在論について」
"Works of Music and Works for Music: Performance Interpretation and the Ontology of Music"
(講演後、同氏を囲んでセミナーを行います。講演およびセミナーは英語で行われますが、逐次通訳が付く予定です。)
コーディネーターおよび司会:吉田寛立命館大学

プライヤー氏の経歴等はコチラ。電子メールでのやり取りはしていますが、私もまだお会いしたことはありません。
日本音楽学会西日本支部の公式サイトはコチラ
この企画が終わったら、ニック・ザングウィルさんの集中講義に関する諸案件に頭を向けなくてはなりません。今年度はどうやらイギリスづいていますね。

2011年度総括

をしようかなと思っているところ。つらつらと。新年度に向けて。
この三月末をもって今の職場で仕事を始めてから四年目が終わったことになる。
通常、大学教員は「四年務めれば一区切り」といわれる(つまり「着任して四年で異動」は、短めであるが、文句は言われない。言わせない)。
もっともこれは学生(学部)が四年で卒業するからであって、私の所属先は五年一貫制の(修士と博士の切れ目がない)独立研究科なので、少し事情は違うが。たぶん、短大や医学部などでもまた違う「一区切り」感があるのだろう。
私の前任者(親以上に年が離れている学会の大先輩)からは着任時に「三年我慢すれば結果が出ますから」と言われた記憶があるが、私の場合、三年では何も出なかった感があり(何かを「我慢した」感もなかったのだが)昨年の今頃は「うーむ、とうとうその三年が経ったか…」と虚しく思っていたのだが、それに比べて、今年は何かが出た感が少しはある。なので一旦ここでまとめておこうと。
・指導教員(主査)として博士学位を出した。ようやく四年目にして初めて、そしてこの先も毎年続くかどうかは怪しいが、今年は二本(二人)の博士論文を出すことができた。一人は日韓の少女漫画の比較研究で、もう一人はゲーム産業のイノベーション研究。前者は韓国で国立のマンガミュージアムで研究員をして、大学でも教え始めている。後者は、この四月からうちの研究科の研究指導助手を務める。博士論文の指導教員(主査)の仕事とは、ただ単に「学位を出す」ことではなく、その学生(の研究)をいかにして「世に出す」かというデザインを行うことに他ならない。だから、内容のチェックや指導はもちろんのこと、副査の人選や審査の方針、その後の出版や職探しの世話まで、その学生(の研究)を世の中のどのような知的水脈・社会的ニーズにつなげていくのか、ということを考えなくてはならない。その意味で指導教員は、研究そのもの(調査、実験、執筆)にはほとんど協力できないとはいえ、その研究の可能性と限界を(当の学生とは違う目線で)よく認識しているのだ。ということを初めて肌で分かった一年だった。これは(小さいかもしれないが)「一区切り」感がある出来事だった。
立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)を事務局長として立ち上げた。これはかなり大きな出来事だった。私自身の研究生活、大学での役割・居場所が大きく変化した。それは一緒にセンターを運営している他の教員やスタッフにとっても同様だろう。さらに立命館大学全体にとってもインパクトがあった(けっこう話題になった)ようである。また学外(または外国)からの「見え方」としても「立命館(京都の大学)にこんなユニークなセンターがある!」ということで、個性を獲得しつつある。研究センターや共同研究プロジェクトの作り方としては「薄く広くテーマを設定して多くの人を取り込んでいく」方法もあるが、私としてはむしろ「個性的でピンポイントなテーマを設定し、それにのってこれる人を学際的に/大学以外からも取り込んでいく」方が結果(何をやっているのか)が見えやすくてよい、と思っているので、それを実践してみた。といっても、ゲームも今やそこそこ「薄く広い」テーマになりつつあるわけですが。ただし、単に「真新しい」だけで注目された一年目とは異なり、二年目(以降)は内容(結果)勝負になってくると思いますので、私ももっともっとアタマとカラダを使わねばならんと思っています。
文化庁メディア芸術祭の仕事を請け負った。ゲーム研究の立場から、メディアアートの世界に初めて足を踏み入れたわけだが、これは皮肉なことであった。私にとってゲームは「感性学(エステティックス)の最良のケーススタディ」であり、それ以上でも以下でもない。私は常々、芸術(アート)は感性学の対象としては扱いにくいと感じており、それをメインの対象として設定したことが「近代美学」の最大の躓きの石であったとさえ考えている。芸術(アート)を対象にすると、どうしても作家性や歴史性、思想(コンセプト)の話になり、肝心の「感性」の次元がしばしば考察から抜け落ちてしまうからだ(もっともゲームでも将来、同様な事態が生じないとは限らないが)。いずれにせよ「今後あまりアートにはかかわらないで・近づかないで感性(学)の研究をしよう」という動機からゲームに着目した私にとっては、ゲームを通じて再び(メディア)アートという枠組みに出会ったことは意外であったし、また困惑の種でもあった。実際、企画したシンポジウムやワークショップは試行錯誤の連続であった(その点でも協力してくれた方々には本当に感謝している)。ただし、ゲームはメディア芸術祭の中の「エンターテインメント部門」に入っている(今年の受賞作品をみるとゲームは壊滅状態だが)わけだが、いわゆる「アート」は難しくても、この「エンターテインメント」や「娯楽」という枠組みであれば、まだしも自分の(感性学の)問題として今後も引き受けていけるかなと思ったりもした。先日某研究会で発表したチクセントミハイなどを読み出したのも、その頃から。これは自分の研究にとって大きな発見だった。転んでもただでは起きなかったぞ、と。まあ、メディア芸術祭関連は基本的に「頼まれ仕事」なので、この先どうなるか全然分かりませんが、メディア芸術祭とは別フレームの文化庁の事業を請け負っていく予定は(これは立命館大学ゲーム研究センターとして)あります。
・諸々の人事案件(院生の就職)も今年は「一区切り」感があったのですが、それはこの場でどうこう言う話ではないので(でも言いたいこと、言わなくてはならないことは色々あるので)関係者にはまた別の機会に。とくにごく身近でも大きな肩の荷が幾つか下りて(まだまだ幾つもありますが)ホッとしております。
・他方で結果が出ずに不甲斐なかったのは、すでにだいぶ前から予告されている私の単著(ドイツ音楽論)です。こちら、三巻本で出すべく鋭意努力中ですので、しばらくお待ち下さい(すでに最初の一巻分は原稿を出版社に渡してあるのですが、中弛み(=書店でいつ見ても上巻だけが並んでいる状態)が怖いので、塩漬けにしているのです)。
・プライベートな領域では、妻がリトミックの講師を始めて一年経ちます。まだほんのお手伝い程度ですが、それなりに忙しくしております。とくにこの一年は、下の子の幼稚園の役員もやっていたので。上の子はこの春、小学校二年生になります。昨日一緒にトイレの壁に「かけ算九九」の表を貼りました。三の段までは諳んじられるよう。そんな年頃。下の子はこの春、幼稚園の年中になります。ようやくひらがなを読めるようになりました。書く方はまだ。「は(ha)」と「は(wa)」の区別もまだあやふや。そんな年頃。だんだん「育児」から「四人の人間の共同生活」へとフェイズが変わりつつあります。物理的・身体的な負担が軽くなってきた分、精神的な負担が増えてきたというか。あと経済的負担も(笑)。

カンファレンス&研究会告知

もう明日になりましたが、毎年恒例、先端研主催の国際カンファレンスがあります。今年のテーマは「カタストロフィと正義」。私は二日目のセッションでコメンテーターを務めます。
全体のプログラムはココをご参照下さい。個人的に言えば、見所は西谷修氏、安藤馨氏、北原糸子氏、フランスとのスカイプ中継セッション(アントワーヌ・ガラポン氏、フレデリック・ヴォルムス氏)でしょうか。
以下は私の関係するセッションだけ。

第8回先端総合学術研究科・国際カンファレンス「カタストロフィと正義」
2012年3月21日(水)〜22日(木)
立命館大学衣笠キャンパス)創思館カンファレンスルーム
2012年3月22日(木)
11:30-12:50 Session 3: The Possibility of Representation and Mediation 表象と媒介の可能性
所要時間80分(報告15分×3+講演15分+フロアー+リプライ20分)
Chair 司会:Ryo Shinogi, JSPS Fellow 篠木涼:日本学術振興会特別研究員PD
・Mariko Konishi. What is Enabling?: A Study of Support Groups of the Tohoku Earthquake
 小西真理子「イネイブリングとは何か?──東北地震の支援グループの研究」
・Yang Sol. We Can Pursue Justice Inasmuch as We Express Ourselves: "Expression" as Alternative Approach--
 梁説「人は表現する限りジャスティスを求めることができる──「表現」というオルタナティブなアプローチ」
・Namiko Iida. A Study of Interpreting Act on People with Communication Difficulties
 飯田奈美子「コミュニケーション障害者にたいする通訳行為の考察」
Lecture & Comment 講義とコメント
Prof. Hiroshi Yoshida 吉田寛:先端総合学術研究科准教授

「講義とコメント」となっていますが、翻訳、共依存、自律性などをテーマにして、三つの発表をつなげる視点を提起したいと思っていますが、どうなるかまだ自分でもよく分かりません。明日一日、前頭葉あたりで転がします。最近、この手の問題を日常的に考えていないせいか、頭がなまっていることを痛感してます。
お次はその翌日、立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)の研究会です。センターメンバーが順繰り担当している発表が、私の番に回ってきた格好です。認知科学系のゲーム研究の先行文献レビューと私が選んだ事例考察の二部構成で行く予定。

立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)2011年度第七回定例研究会
日時:2012年3月23日(金)15:00〜17:00
場所:立命館大学衣笠キャンパス)学而館2階・第3研究会室
「ゲームにおける行為と問題解決──ゲームの〈リアリティ〉再考のために」
発表者:吉田 寛(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
 ゲームを他のメディアやアートから決定的に隔てるものは「行為」である。どんなに素晴らしいゲームでも、プレイヤーの「行為」がなければ始まらない。そして「行為」が発生し、行われ、終了するまでの間には、プレイヤーの中できわめて高度で独自の認知過程が生じているはずである。
 本発表ではその中から(1)ゲームの画面を行為のための空間(行為空間)として認知すること、および(2)その空間に「問題」を見出し「解決」を図ること、の二つの過程を取り出し、ゲーム・プレイヤーの認知と行為の過程が具体的にどのようなものであるかを考察する。
 さらに本発表は、ゲームの本質を「問題解決の行為」として捉えることで、〈リアル〉に対置される〈フィクション〉としてゲームを理解する際には見落とされてしまいがちな、ゲームに独自の〈リアリティ〉の位相を分析するための新たな視点を提示する。

人前で話すのは今年度はこれで終わりです。
きっと年度末だからだと思うのですが、今週はウィークデイのほとんどの夜に呑み会が入っており、それが慌ただしさに拍車をかけています。
発表準備のための時間、勉強する時間、寝る時間、食べる時間、家族と過ごす時間、アルコールを消化する時間のどれもがことごとく足りません。春休みという言葉の意味が分かりません。

メディア芸術部門会議(2月24〜25日、東京ミッドタウン)

平成23年度(第15回)文化庁メディア芸術祭の受賞作品が昨年12月に発表されました。明後日2月22日(水)からは国立新美術館で、受賞作品展が開かれます。前日の祝賀会&内覧会には参加できないため、私も会期が始まってから(大慌てで)見に行く予定です。
これにあわせて、2月24日(金)と25日(土)の二日間にわたり、「メディア芸術部門会議」が開催されます。この会議は昨年に引き続き、二度目の開催となりますが、今年のテーマは「地域活性と10年後のメディア芸術」です。
詳細はこのサイトにありますが、一日目(24日)にはメディアアート、アニメーション、マンガ、ゲームの四部門に分かれて、分野別会議を行い、二日目(25日)には前日の成果を踏まえて、二つのテーマ別会議「新たな才能を社会につなげる」「メディア芸術による地域文化の進化」と、シンポジウム「新たなメディア芸術への革新とコミュニティ形成」を行います。
私は、24日にはゲーム部門会議のモデレーターを務め、25日には最後のシンポジウムのパネリスト(兼モデレーター)を務めます。
ゲーム部門会議には、井上明人さん(国際大学GLOCOM研究員)、新清士さん(ゲームジャーナリスト)、堀浩信さん(福岡市経済振興局・コンテンツ産業担当)のお三方をお呼びしております。井上さんはご存じ、大ブレイク中の『ゲーミフィケーション』の著者の立場から、新さんはそのパワフルなフットワークで日本全国のゲーム系イベントを駆け回っている経験を活かして、そして堀さんは、日本国内でも他に類を見ない、ユニークなゲームの産学官連携機関「福岡ゲーム産業推進機構」を取り仕切っている現場の担当者として、それぞれプレゼンテーションをしていただく予定です。
また25日のシンポジウムは各部門会議のモデレーターが四人集まって行うのですが、どういうわけかそこでのモデレーター役も私が仰せ付かってしまいました。二日目はその場にいる(佇む)だけでいいだろうと気楽に構えていた(←それは言い過ぎ)のに、一転して何とも胃が痛い状況に。そもそも私は「メディアにもアートにも無知ですが、ゲームなら何とか」と半ば消極的に(昨年以来)メディア芸術祭に関わってきた身ですので、他の三つの分野に対する「横から」の言葉はもちろん、メディア芸術祭なるものについて「上から」語るような言葉を持っていません。従ってせいぜい、事前に(といってもあまり時間はありませんが)、そして二日間の会議を通じて、精一杯勉強させていただいて臨みたいと思っています。
私は今いつになく緊張していますが、それは与えられた任務の大きさももちろん関係しますが、両日ともいわゆる「プレゼンテーション」をしないことも理由だと思います。プレゼンテーションをするときは、誰でもそうだと思いますが、直前にはその準備で大わらわで「緊張」など感じる暇は微塵もありません。そして、もしもそのカンファレンスの場で、多少大きな視野での質問に答えるときも、自分のプレゼンテーションに引きつけて、その限定された立場から回答することができます。今回私はプレゼンテーションをしませんので、いわば「手ぶら」で会場に行くことになります。これはすなわち「立場」(依って立つ足場)がない、ということを意味します。「オマエ何やってるの? というかアンタ誰?」と問われても、その会議の中では私は「肩書き」以上のことは答えられません。これはきっと辛いです。それが私の緊張感をいっそう高めています。だからといって「プレゼンテーションをする方が楽、緊張しなくていい」という話でもないのですが、別種の緊張感、プレッシャーということなんだと思います。
今のところ、この会議に私個人は二つのテーマをもって臨もうと考えています。一つ目は「そもそも論」として「地域振興」がなぜ大事なのか、そしてこの言葉はそもそも何を指すのか、ということ。あるいは、何を持って地域の「振興」と(誰が)判断するのか。多少極端に言えば、経済産業省ならまだしも、文化庁が「地域振興」を言い出すことの意味が私には分かりません。いやもちろん昨今の「時勢」は理解しますが、わざわざ文化庁(周辺)が今このタイミングで、それを言い出すことの戦略性というか「意味」が分からないのです。二つ目は、かりに地域振興というテーマに「のる」として、ゲームがその中でどのような位置づけにあるのか。ゲームはどの程度「特殊」あるいは「一般的」なのか、メディアアートの今後を考える上での「モデル」になるのかならないのか、ということです。商業色が薄いメディアアートは言わずもがなですが、いわゆるサブカルチャーとして消費されているアニメやマンガと比べた場合でも、ゲームは「産業として成立・成功している」度合いがきわめて高いと言えます(この辺の「印象」も本当かどうか会議の場で検証したいですが)。教育との連携や地域経済の活性化、社会への技術的還元なども、ゲームはとてもやりやすいし、また現に実績もある。だがそれは単にゲームが「特殊」だからであり、ゲームがうまくいってるからといって、他の分野にもそれが真似できる、真似すべきである、という話ではなかろうと(いや、そもそもゲームはアートじゃないだろう、という「そもそも論」がここでも首をもたげますが…)。いやそんなこと皆さん重々ご承知かと思いますが、「地域振興」なるものが大上段に掲げられると、どのようなロジックが先に立つ(暴走する)か分かりませんので、私自身はゲーム部門を代表するからこそ、思考法や語り口に気を付けなくてはと思っています。というか本心を言えば、私は「産業」や「経済」の話をそもそもしたくないのですが、それは今回のテーマでは無理ですよね…。
と色々逡巡を書きましたが、基本的にはとてもワクワクする、楽しみなイベントです。当日は以下のサイトで中継も行われますので、遠隔地の方もどうぞご覧下さい。

文化庁メディア芸術祭特設サイト http://megei.jp/tv?locale=ja
文化庁メディア芸術祭USTREAM公式チャンネル http://www.ustream.tv/channel/bunka-jmaf

なおこのカンファレンスの「裏」で、日本デジタルゲーム学会DiGRA Japan)の大会が25〜26日に立命館大学で行われています。私は非会員ですが、立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)との共催セッションが26日午前にあり、そこにコメンテーターとして参加しますので、日曜日には京都に戻ります。京都で(も)お会いしましょう。