最近書いたものや喋ったこと

ちょうど一ヶ月ぶりの更新となりましたが、まずは最近刊行されたものから。

立命館大学国際言語文化研究所編『立命館言語文化研究』24巻2号(通巻110号)、2013年2月.
「グローバリゼーションのなかのビデオゲーム
吉田寛「なぜいまビデオゲーム研究なのか──グローバリゼーションと感覚変容の観点から」(pp. 93-98)
Jaakko Suominen.“Videogames in the Globalization: The Case of Finland.”(pp. 99-108)
天野圭二「グローバリゼーションのなかのビデオゲーム──フィンランドにおけるゲーム産業振興の現状と課題」(pp. 109-119)

2011年10月に立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)と国際言語文化研究所(言文研)がタイアップして開催した連続講座「グローバリゼーションのなかのビデオゲーム」に基づく小特集(論文三本)です。いずれコチラのサイトからダウンロード可能になると思われますが、まったく私の管轄外なので時期等は不明です。抜刷やコピー等を希望される方は、私にご連絡をいただければ直接ご対応いたします。
天野さんは愛知の星城大学経営学部)の教員で、北欧諸国のIT産業振興や産学連携をご専門としています。ヤッコ・スオミネンさんはフィンランドのトゥルク大学の教員で、RCGSの客員研究員として2011年に滞在されていた方です。専門はデジタル文化で、とくにビデオゲーム文化における過去の遺産とその再活用が最近のご関心のようです。元を辿れば、先端研修了生の森下直紀さんから天野さんをご紹介され(国際関係学部時代の先輩後輩とのこと)、その天野さんからスオミネンさんを紹介され、その年創設したばかりだったRCGSに客員研究員第一号として受け入れを申請させていただいた、という経緯です。外国から日本に来てゲーム研究をしようとしている人達の受け皿となる(これまでそういう組織が日本の大学や研究所には皆無だったので)というのがゲーム研究センター設立の主要動機の一つでしたので、その想定が早くも的中して些か驚いた記憶があります。
私の論文は短いものですが、グローバリゼーションを理解する上でビデオゲームに注目することがいかに重要かということを感性学者の視点から書いたもので、加えて立命館大学ゲーム研究センター(RCGS)設立の動機と経緯にも触れています。後者については(口頭ではあちこちで折に触れて述べてきましたし、学内的文書には書かれているわけですが)なかなか「明文化」されて公の目にふれる機会がないので、今後私なりに「重宝」しそうな論文です。

巻頭座談会「オルタナティブな教育の場としての美術館」
服部正+島田康寛+竹中悠美+吉田寛+鹿島萌子
立命館大学生存学研究センター編『生存学』Vol. 6(生活書院、2013年3月)→ [Amazon.co.jp]

美術クラスタの方にはこちら。昨年の夏に、われわれ先端研表象領域のメンバーが『アウトサイダー・アート』の著者である服部正さん(横尾忠則現代美術館、当時は兵庫県立美術館)をお迎えして座談会の記録です。私は「アートワールド」の外の人間として「チョイ役」で参加させていただいたのですが、それゆえというか、それにもかかわらずというか、例によってというか、言いたい放題(笑)です。とはいえ、アウトサイダーアートの定義は「作品の性質」というよりも「作家の意向(作る人がむしろアート志向を持たないこと)」や「マーケット(目利きの存在)」にかかっている、という明快な回答を服部さんからいただき、積年のもやもやが晴れた感じはしたので、参加した甲斐がありました(その辺りの議論ももちろん掲載されています)。一方、博物館と美術館は(日本語以外の多くの言語では同じ「ミュージアム」だし)もっと原理的に接近して行ってもいいはずだ、という私の主張はあまり理解・共有されませんでしたが。私の感性学的研究にとって主要な対象(身体や感覚にかかわる技術や機会)は、美術館よりも博物館の側に属しているし、この座談会の主題である「教育」という観点からも、美術館は博物館の取り組みをもっと見習ってよいはず、と思っているのですが。まあまたそのうち何かの機会に考えます(今日も先ほどまで私の研究室に某市立科学館の方が打ち合わせのためにお見えになっており、科学研究のアウトリーチ活動にゲーム研究者がどう貢献できるか、という話をしていました。「美術館ではなく博物館とタッグを組む」という謳い文句も、これからの感性学の明快な定義としてイイかも、とか思ったりしています)。
ところでこの雑誌、第5号まではAmazon.co.jp等で売っているのですが、第6号はまだみたいですね…。オンラインで買えるようになったらリンクを追加します。
[2013.4.4追記]リンク先を追加しました。
それと、今月最大のイベントというか、もしかしたら今年最大のイベントになる気もしますが、先週までイギリスはノリッジにあるイースト・アングリア大学(University of East Anglia)から招待されて、講演旅行(実際は業務出張でして、そんなに偉そうなものではありません)に行っていました。ヨーロッパも大陸部には何度も足を運んでいますが、実はイギリスという国は初めてでしたので、その意味でも充実の旅行でした。
3月16日にこのシンポジウム(リンク先は同大学内にあるセインズベリー日本芸術研究所)で“The Aesthetics of Video Games: What and How Do We Sense in the Game World?”という発表をしました。同大学の言語コミュニケーション学部(School of Language and Communication Studies)に現代日本文化・現代日本語を学ぶコース(古典的日本文化・古典日本語ではないところがポイント)ができて、日本のポピュラーカルチャーに関心の高い教員と学生がいる、ということが同学部がこのシンポジウムを主催した背景にあります。滞在中、同学部の「日本のポピュラーカルチャー入門」のクラスにもゲスト参加しましたが、“tsuppari”とか“purikura”などの「基礎概念」をしっかり叩き込まれており、こちらが教える前に学生がしっかり「定義」を説明することができるなど、何とも微笑ましかったです(笑)。今回のホステスであるNana Sato-Rossbergさんから教えてもらうまで知らなかったのですが、日本のポピュラーカルチャーについての教科書として世界的に読まれているのはコレだそうです(著者の多くは日本人の研究者です)。日本語ではなく外国語(西欧語)で書かれたものが日本文化の本質とその理解を決定する、というのは大昔からの鉄則ですが、なるほど日本のポピュラーカルチャーもそういうフェイズに入ったのね、という感慨を持ちました。
また18日には同大学の映画・テレビ・メディア学部(School of Film, Television and Media Studies)の教員と博士課程の学生を対象としたセミナーで“User-Centered Design in Video Games: Affordances, Constraints and Tutorials”という発表をしました。UEAのFTMはイギリスの研究ランキングでも四位に入っている優秀な学部であると事前にうかがっていましたが、実際その通りで、Q&Aでは鋭い質問が幾つも出ました。映画・テレビ・メディア学部というのは、日本ではあまり馴染みがないですが、英語圏の大学にはけっこう多く見られますよね。どんなところだろ? どういうディシプリンの人達が多いんだろ?と行くまでは謎だらけでしたが、結果的に、日本で言えば「表象文化論」っぽいというか、まさしく「カルチュラルスタディーズ」のお膝元という印象を受けました(歴史的連続性はよく分かりませんが)。共同研究の話を持ちかけられてミーティングをしたFTMの研究者がいるのですが、その方の専門は映画のオーディエンス研究とのこと。私の発表はノーマンのデザイン理論を(先駆的に、そしておそらくは無意識的に)実現していたものとして日本の初期ビデオゲームを(ハードウェアとソフトウェアの両面から)解剖する、という話でしたが、ノーマンの名前を知っている人に挙手してもらったところ、40人ほどの聴衆のうちわずかに一、二名いるかいないか。その時点で、認知科学系や工学系のコモンセンスがあまりない(というかそういう性格の学部ではない)ということが分かりました。アメリカのFTM系学部だったらもう少し違うはずだと想像するので、お国柄かもしれません。
それ以外にもアドミニストレーションレベルでの折衝(さすがに中味は書けませんが)を持ったり、イギリスやアイルランドの大学で教職に就いている日本人数人とじっくり意見交換する機会を持つことで、学問のみならず、私の人生全体の価値観が大きく更新される旅行となりました。ただし自分一人でレストランやカフェに入る機会がほとんどないくらい、ほとんど毎日(毎食、ときには朝も)誰かと一緒で、その意味では少々肩が張りましたが、これは旅行ではなく出張ですから仕方がありません。
なおゲーム研究については、今(まさしく本日)校正中の論文があって、来月には書店に並ぶはずです。またご紹介いたします。
学内的な事情があってこの四月から超多忙となる予定で、これまで以上にこのブログの更新頻度も減ると思われますが、何か企画をやる(やった)ときや書いたものが出るときなどは、ここでご案内することを最低限自分に課そうと考えています。