『〈音楽の国ドイツ〉の神話とその起源』
音楽の国ドイツの系譜学(1) <音楽の国ドイツ>の神話とその起源 ルネサンスから十八世紀 (“音楽の国ドイツ”の系譜学)
- 作者: 吉田寛
- 出版社/メーカー: 青弓社
- 発売日: 2013/02/20
- メディア: 単行本
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「〈音楽の国ドイツ〉の系譜学」という三巻シリーズの第一巻で、出版社とは今年中に全三巻を刊行するという「約束」を取り交わしております。
振り返ればこの頃から長らく、一種の「出る出る詐欺」状態が続いていたわけで、皆様(とりわけ読者や出版社の)には本当にご迷惑をおかけしました、そしてお待たせいたしました。博士論文のリライトにここまで時間がかかるとは当初自分でも予想しませんでした。ひとえに怠惰の故です。
第一巻はルネサンスから18世紀までという時代設定で、ややアクロバティックさに欠ける、古文書学的な記述が淡々と続く印象は否めませんが、より現代的な観点から〈音楽の国ドイツ〉というテーマを捉えた序章を含みますので、それによって多少は「色がついた」というか「救われた」感があるかなと思っています。でもそうした一見、淡々とした歴史記述の中にも、今日においてアクチュアルな論点や問題がチラチラと出てきますので、音楽史にさほど関心がない方でも、思想や文化全般に関心があれば、それなりに楽しく読んでいただけるのではないかと思って(自信をもって、というのではなく、単に楽観して)います。というよりも、事態はむしろ逆で、「過去のドイツ」のことを語っているように見えながら、その実「この私」の問題関心を語っているにすぎない、と言った方が実状に即しているかもしれず、そのことはすでに博士論文を書いている中で自覚されていました。こういう本は「本場の」ドイツ人には決して書けないだろうと自負していますが、逆に言うなら、この本が提示する見通しは、あくまでも「21世紀の日本人(端的に、私)から見たストーリー(歴史=物語)」なのですよね。情報量の少なさ、より正確にはその「偏り」が、そのストーリーを可能にしているわけで、ド・マンの言い方を借りれば「盲目が可能としている洞察」(これは自分では分からないし、どちらにしても私の場合たいしたものではないですが)に賭けている部分があります。
今の私としては、この本(シリーズ)を「踏み台」にして、ぜひ多くの人に、どんどん「別のストーリー」を紡いでもらいたい。いや、もう少し突っ込んで言えば──自分で書いたことをいきなり否定するようですが──この本を「踏み台」にして紡ぎ出せるような「別のストーリー」は(種類として)それほど可能であるわけではないし、その作業はさほど生産的ではない。というのも、この本を「仮想敵」として「別のストーリー」を紡ごうとすると、実は、その論者が依拠する「パラダイム」自体が、私のものからはズレてくると思われるからです。そして私が本当に見てみたいのは、その「ズレたパラダイム」だったりします(その瞬間、私の仕事が真に「結実する」からです)。誰もやらなかったら(寂しいですから)そのうち私が「戻ってきて」、自分でやるかもしれませんが(笑)。
いずれにせよ、今の(そして将来の)私には絶対にこういう研究はできません(古い外国語を読む能力などは日々使っていないとどんどん減退していく、という点でも)。そしてだからこそ、これは「本」というかたちできっちり残しておかねばならないと考えているわけです。
私は興味関心が(自分でも不安になるくらい)どんどん移り変わっていき、しかもその流れに身を委ねるタイプなので、現在考えていることや喋っていることと、書いて出版することの間には少なからず「時差」があります(もちろん多くの人がそうだと思いますが、私はその度合いが高い方かと自覚しています)。でも、多少「時差」があっても、自分の研究の軌跡をきっちりと本にしていくことは私にとって(自身の「不可逆的変化」を留める意味で)大切であるだけでなく、何よりもそれが一つの社会的責務であるとも考えています。これはとくに最近考えるようになったことです。
というのも、本というかたちで出版することで、その研究へのアクセシビリティが急激に高まるからです。私自身が(「被害者」としても「加害者」としても)経験があるのですが、学会発表原稿や学位論文、学術論文の段階で「手を止めて」しまうと、そういう研究が存在することを(要旨集や他人の言及などで)知って参照したくても、なかなか入手できないんですよね。場合によっては、その人に直接お尋ねしても「すでに資料が散逸してしまっていて、文字化した以上の詳細は分からない」などというケースもある(そのような返事をもらって残念だったことがありますが、わが身を振り返れば、自分にもそういう研究が幾つもあります)。これでは非常にもったいない。また研究には、公的資金が投入されていたりもするので、そうした観点からすれば、もったいないだけではなく、社会的損失ともいえる(もちろん公的資金投入の成果を研究者に「直接的」なかたちで求める考え方には、私は強く反対しますが)。研究者が引退すれば(または引退する前から)資料は散逸してしまいますが、本というかたちにすれば研究成果は確実に後世に残る(なお私はこの点で、自分も利用・活用しているとはいえ、インターネット上のデータアーカイブには強い疑心を持っています)。またもちろん一般読者に読んでもらえる、という点でも本というメディアのアクセシビリティは偉大です。学術雑誌や紀要などは、いくらインターネット上で自由にアクセス可能でも、どうしても「秘教的」存在になってしまいますので(ただしこの状況は目下変わりつつあります。「紀要」が持つ新たな可能性については、いずれ書きます)。そして何よりも、このご時世にあってこうした学術書を出版できる環境があることは本当にありがたいことですので、その意味でも頑張らないわけにはいきません。
今回のシリーズは、そんなことも考えて取り組んでいます。第二巻は、バロック時代のヨーロッパで(とくにドイツを中心に)流行した「混合趣味」の盛衰と、ヘルダーらによる「民謡」理念の台頭に光を当てる予定で、夏頃にはお見せできればと考えています(一応すでに入稿済み)。目下、第三巻を鋭意執筆中です。