音楽は「聴覚文化」研究の対象ではない?

少し前から考えていたことだが、音楽は実は「聴覚文化」研究の対象ではないかも知れない。(そこから翻って、そもそも「聴覚文化」研究なるものの内実は空虚ではないか、ということでもあるのだが。)
「美術」が「視覚文化」研究の中で(も)それなりの位置を占めているようには、「音楽」は「聴覚文化」研究の中で場所を持たないかも知れない、ということだ。
「聴覚文化」研究と言った場合、その主要なコンテンツは、私が考えるに、聴覚・耳の研究(例えばヘルムホルツ、ベケシー)、言語・声・聴取の研究(例えばオング、マクルーハン)、メディア・器具の研究(例えばキトラー、スターン)などであり、いわゆる「音楽作品」は、「聴覚(耳)に基づく独特の文化的編成」云々といった議論と実はそりが合わないのではないか。かりに「聴覚」と「聴覚性」を区別したとして──この区別自体、「視覚」と「視覚性」ほどには自明・有意義ではないだろう──この区分を有効に用いて分析できる「音楽」(作品あるいは文化)は、せいぜいミニマル・ミュージックサウンドスケープなどに限定されるのではないか。その他すべての「音楽」を今日批判的に理解・再検証する際に、聴覚・耳の特性を持ち出すことにいかほどの意味があるのか。つまり、一般的な意味での「音楽」(作品)を「聴覚文化」と言い直したところで、それによって新たに得られる方法論的なメリットはさほど、いや、まったくと言って良いほど、無いのである。「聴覚文化? そうだよね。音楽はたしかに耳で聴くからね。でも、だから何?」といったところだ。
ゴンブリッチやアルンハイムのように美術の創作の伝統と視覚の認知理論を見事に「橋渡し」するような理論家が、音楽(と聴覚理論)の分野でも出てきたら、話は別かも知れないが、現状ではせいぜいサウンドスケープどまりであり、それでは理論としてダメである。事実、サウンドスケープ研究の第一人者であるはずのR・マリー・シェーファー自身、こう書いている。

それゆえ音楽史家やサウンドスケープ史家が実験室の基礎研究から、ルドルフ・アルンハイムやE・H・ゴンブリッチのような美術史家が受けたのと全く同じような知的興奮を得られるとはあまり考えられない。(…)サウンドスケープ史家はいまのところ、聴取習慣における知覚の変化の性質と原因を試行的に推測するしかなく、心理学者の友人たちがより実験的な研究の要求にこたえてくれることを願うしかないのである。(『世界の調律』)

そして実際、シェーファーが主に依拠する聴覚理論はカーペンター/マクルーハンのものである(カナダつながりというのもあるのかもしれないが)。だがそれは本当の意味での「実験的」な聴覚理論ではない。なぜなら、カーペンター/マクルーハンの聴覚理論は(同時代において最先端だった)ノーベル医学・生理学賞受賞者であるベケシー(蝸牛管の機構を解明した人)の聴覚研究の比喩的受け容れでしかないからだ(これはあまり知られていない重要な点なのでそのうちどこかでちゃんと書きます)。本来ならば、むしろシェーファー当人こそが、聴覚の認知心理学にまで手を伸ばして、いわばゴンブリッチ的な仕事をやるべきだったし、あるいは少なくとも「より実験的な研究の要求にこたえてくれる心理学者の友人たち」を彼自身が持つべきだったのだ(それを期待して読んだ私が残念に感じたということでもある)。
(もっともこれは、科学の進歩や研究者個人の「学際的」努力にかかっている問題ではなく、視覚の効果や機能と同じように反省的・分析的には聴覚のそれらを扱えない、という単純な事実に起因するのかも知れない。だがこれこそまさに、答えようのない問いだ。)
話を戻すと、われわれは、音楽(作品)の形式や様式の問題と、聴覚・耳の特性の問題とを、有効に「橋渡し」するような理論を(まだ)持っていない以上、「聴覚文化」研究の対象に「音楽」を含めるわけにはいかない、「音楽」は(まだ)音楽学の対象でしかない、ということだ。「聴覚文化研究」とかいって、いざ蓋を開けてみたら、結局普通の(多少テーマや視点が新しめにしても)音楽学(音楽研究)でした、チャンチャン、みたいなオチはサイテーだろう。もしも音楽学という旧弊なディシプリンを「延命」させるために、小手先の猿知恵として「聴覚文化研究」という多少新鮮な響きを利用しようとする人がいたら、言葉の選択を間違えている上に、マイナーなものをさらにマイナーにして寿命を縮めるだけだから、止しておいた方がいいと言いたい。
おそらくは、Berg 社の Sensory Formation Series で聴覚に順番が回ってきたときに、「視覚文化研究(Visual Culture Studies)」という既存の言葉をスライドさせて、勢いで『The Auditory Culture』(2003) という題名を付けちゃったんだと思うけど、もう少しよく考えて欲しかったな(もちろん、受け手がよく考えればいいだけの話なのだけど)。実際、この本以降、Auditory Culture という題が付いた本は一冊も出てないようなので、結局、流行らせることには失敗したみたいだけど、もっともらしく聞こえるのか(とくに日本では)騙されている人がけっこういるような気がする。
まあ以上はすべて自己批判なんだけどね。「聴覚文化研究の構築に向けての基礎的考察」とかいうプロジェクトを三年間やってきて、三年目に至った結論がこれだから(笑)。少なくとも自分では(以上で示した考えが変わらない限り)もうこの言葉を使わないようにしよう、これから何か言う場合には、単に聴覚研究や聴覚論と言おう、でもって、この言葉を無批判に使っている人に今後出くわしたら、その研究の中身(枠組ではなく)をいちいち尋ねてあげることにしよう、と思っている次第。ある意味、ものすごく明快で強力で社会的に有用な研究成果が産出されたとも言える(笑)。
【追記 2010.5.24】
明日の授業のために読み直しているウォーカー/チャップリンの『ヴィジュアル・カルチャー入門』にこんな一節を発見。

今日、美術は依然として、視覚文化(ヴィジュアル・カルチャー)という領域の一部ではあるが、もはや中心的な位置を占めているわけではない。(…)たしかに、絵画と彫刻は、いまだにいくつかの科目では論じられている。しかしそれは、ヴィデオ・アート、前衛映画、インスタレーション、ヴァーチャル・リアリティなどと並んでのことである。

この文章を「聴覚文化」と「音楽」に置き換えた場合、一体どうなるのか、という問題。さらに言えば、『オーディトリー・カルチャー入門』のような「方法論の教科書」が果たして可能なのか、という問題。この辺り、東京芸大の応用音楽学でやってるカリキュラムとか、参考になるのかしら。私が勤めていた国立音大では、あまりそういう展開は見られなかった記憶が。グローバルに見たときどうか、にも関心がある。とくにイギリス人には言い出しっぺの責任取ってもらわなくちゃいけないからな(笑)。視覚文化研究では、イギリスはよくやってると思うし。