大学教員の領分とは

最近、日々ますます「時間の無さ」を痛感することもあり、自分がどのような種類の仕事に時間/労働/リソースを割いて(割かれて)いるのかをこの際きっちり把握しようと思い立ち、できるかぎり合理的かつ網羅的に分節してみることにしました。自分としても今さら感はありますが、大学教員がどのような時間の使い方をしているか、外からはあまり見えにくいと思いますので、何らかの役に立つ情報になるかも知れません。とはいっても、個人の差(研究分野/年代/活動地域など)が大きいですし、あくまでも私(周辺)の視点で捉えたものですので、それほどの一般性はありませんが。
(1)本務校(自分の所属大学)での仕事
・授業/試験
・学生や院生の研究/論文指導
・入試関連業務
・教授会・各種委員会
本務校というのはその教員が主たる給与を貰っている所属機関です。大学教員は皆さん、多い場合には週に五日以上、少ない場合でも週に二日程度は、本務校(で)の仕事をしていると思われます。
また大学教員が研究室(ラボ)を持てるのは基本的には本務校だけですから、授業等が無くても研究室がそこにある限り、本務校がその教員にとっての研究・教育の拠点となります。私も自宅に仕事部屋はありますが、諸々の理由でなかなか仕事が手に付かないことが多く、とくに授業等がなくても結局は研究室に行って仕事をすることが多いです。
(2)他大学(本務校以外の大学)での仕事
・非常勤での講義(集中講義を含む)
・学位論文の審査
・第三者委員会等
これは一見すると「余計な仕事」に見えますが、本務校での仕事に劣らず、大切です。なぜなら「他大学の教員の協力」が無くては、どの大学も成り立たないからです。カリキュラムを組む上ではかなりの数の学外の非常勤講師が必要ですし、博士論文等の審査にはほとんどの場合「学外の審査員」が必要ですし、大学評価等にかかわる第三者委員会にも学外者の視点が必須です。設計の良し悪しは別として、大学という組織は(歴史的には知りませんが現代の日本では)「他大学教員のボランティア的コミットメント」を前提にして営まれています。
従って、もしも自分がそれらの仕事をお願いしたことがある方からの協力依頼はお断りできませんし、かりにそうした「借り」が無い人の場合でも、将来、何かのときにこちらからお願いする可能性を考えれば、やはりお断りできません。とはいっても時間には限度がありますから、最終的には義理人情の世界になってきます。
「大学教員」の仕事として通常(学生等から)見えている部分は、だいたい上記の(1)と(2)に収まると思います。実際それだけでかなりの時間/労力が割かれているわけですが、「研究者」として眺めた場合、まだまだあります。
(3)大学以外の研究機関での仕事
・学会や研究会の運営
・海外の研究者との交流
学会や研究会は、大学教員や研究者(研究所や企業等に所属する人達も含めた)、そのタマゴ達が集う場であり、日常的な研究活動の母体です。学会や研究会で得た知識や情報を、それぞれの研究者(教員も学生も)がそれぞれの大学に「持ち帰り」、そこで深めたことを今度は学会や研究会に「持ち出す」、その往復こそが理想的な研究の営みであり、大学だけで閉じるのも学会・研究会だけ閉じるのもダメだと私は考えています。
とくに私の場合、もっぱら大学院生の相手をしているので、(3)と(1)の結びつきも強いです。自分が所属する学会・研究会に自分の指導する学生を連れて行く(紹介する)のは基本として、自分は所属していないが学生が所属(発表)する学会・研究会にも出入りしたり、あるいは、学生が発表できそうな場かどうかを確かめるために、未知の学会・研究会に私が「偵察」に行ったりすることもあります。
また大学教員・研究者のクオリティを計りたい場合には、大学内の評判よりも、学会内の評価の方が確かなことが多いです。学会内でまともな仕事・活動をしていない人が、大学内でめざましい教育・活動実績をあげた例は寡聞にして知りません。
また私の考えでは、海外の研究者との交流も(そのメインの部分が)ここに含まれます。大学というのは(その成り立ちや下部構造からみて)基本的に「ナショナルな(国の)利害システム」とガッチリ結びついている場ですから、「国際化」は個々の学生・教員の自由な活動に任せるしかない、(1)や(2)で謳われる「国際化」は空虚なフィクションか、本人達も真剣にやっていない「お遊び」にすぎない、というのが(ハンス・ヴァイラー=北川東子経由の)私の持論です。
そういう意味では(1)と(2)の領域でできないことが(3)の領域ではできます。もちろん逆もたくさんありますが。
(また最近、注目されている問題に(3)でのハラスメントがあります。大学は組織として(アカデミック・)ハラスメントを防止するガイドラインをそれなりに作ることができますが、学会・研究会等では制度上それを防止する術を持たず、多くの場合「野放し」になっています。学会での発表や論文投稿に絡むハラスメント行為は、明らかに「アカハラ」であるにもかかわらず、それを取り締まる仕組みや機関がない、という問題です。ただし一部の学会(日本社会学会等)ではこの問題をきちんと認識し、対処を始めていると聞いています。)
(4)研究機関以外での/との仕事
・行政/自治
・公的機関(博物館/美術館)
・企業
NPO
・メディア/ジャーナリズム
研究者としてのスペックをフルに発揮するわけではありませんが、研究者という立場でそれ以外の人々と広くつながっていくための仕事です。研究の「裾野を広げる」活動です。
人によっては、いわゆるアウトリーチとか産学官連携とか産学地(地域の「地」)連携とか社会貢献とか社会連携とか言うこともあります。私自身はそういうお題目はどうでもいいと考えているので、ニュートラルに「研究機関以外での/との仕事」と捉えています。
具体的に私の場合でいえば、文化庁経産省京都市、国公私立の美術館や博物館、芸術・音楽関連団体・企業、ゲーム企業、各種NPO等との仕事がこれに入ります。
新聞やテレビ等メディアの取材に応じることなども、ここに含めていいと思います。ブログやツイッター等での情報発信も(その種類によっては)ここに含めてもいいものがあります。
ときに(3)との境界が曖昧ですが、私は分けて捉えています。
また、例えば私が京都市と仕事をするときは、研究者(プロフェッショナル)としてやる、というだけでなく、そこで生活や育児を行う地域住民の一人として自分の得意分野を活かして地域貢献を行うという意義もありますので、(6)と境界が曖昧になることはあります。実際、地元で私が関わるイベントを行うときには、隣近所にフライヤーを配ったり、子どもたちを連れて行ったりしますし。
(5)物を書く仕事
大学教員の「物書き」としての仕事は実は多種多彩で、大学内の出版物(紀要等)に書く場合には上記(1)や(2)に、学会誌等に書く場合には(3)に、新聞や雑誌等に書く場合には(4)に、それぞれ含まれるという見方も可能です。ですが私は、それらには含まれない、「誰に頼まれたわけではなく、研究者として孤独に営んでいる領域」としてこの(5)をポジティヴに捉えています。孤独というのは(編集者とつねに二人三脚とはいえ)組織人としての、義務を負っていない仕事ではないと言う意味です。
端的にいって「私が私の名前で本を出すこと」は、直接的にはとくに誰のためにもなりません。大学のためにも学会のためにもなりません。大学や学会はむしろそのための時間を別のこと(それらの組織の運営等)に割いて貰う方が正直ありがたいでしょう。従って、自分の所属する大学や学会のことは常に(ありうべき読者として)念頭にありますが、別にそれらの「ために」書くわけではありません。あえて言えば、むしろ(1)〜(4)の領域では出会うことのないような読者のために書いている、という感覚でしょうか。
純粋に自分のためという性格から帰結して、必然的に、あまり時間が割けないのがとても辛いところですが、私にとって、ある意味でもっとも大切な領域です。何と言っても死んだら本しか残りませんからね(笑)。
(6)その他の仕事/仕事以外にやっていること
睡眠/食事/育児/人付き合い/ボランティア/地域での仕事などなど、プライバシーも余暇もへったくれもなく、私の場合、その他の諸々が全部この一つのカテゴリーにぶち込まれています。そしてどのみち総時間がそんなに取れないので、カテゴリーをそれ以上分割しても仕方ないと思っています。
以上、自分で書いていてゲンナリしましたが、そのかいあってだいぶ人生の見通しがスッキリした気がします。何年かに一度、こういう作業をするのはいいことかも知れません。これ以上、カテゴリーを増やし無くはない(つまり(7)を作りたくない)ですし、あわよくばスクラップ&ビルドを行っていきたいと考えておりますので、皆様ご協力のほど、よろしくお願いします(笑)。

錯覚(イリュージョン)の感性学(のメモ)

以下、来年度に集中講義でお邪魔する某大学のシラバスに書こうと思っていること(のメモ)です。
ふだんはあまりそういうものをこういうところで書く趣味や習慣はないのですが(講義のシラバスは、研究者間でもっと公開しあって、チェックしあうようにすべき、とは思っている)、最近私が考えている錯覚論はこんなもの、という紹介にはなるかなと思い、書いてみる次第。

【科目の概要】
錯覚(イリュージョン)の感性学
【科目のねらい】
錯覚(イリュージョン)を導きの糸として、美学=感性学(エステティックス)への再接近を試みる
【授業計画】
 錯覚(イリュージョン)とは、感覚器官が正常であるにもかかわらず対象物に対して誤った知覚や認識を得てしまう現象である。それは正常な感覚を備えた人が普遍的・恒常的に経験する点で、幻覚とは異なる。だが錯覚は「感覚の誤謬」ではなく、むしろ人間にとって有用な情報処理過程(知覚補正)の結果である(グレゴリー)。錯覚は、人間の知覚がいかに精巧に──日々直面する状況に柔軟に適応できるように──できているかを示す現象なのである。
 他方で、錯覚を「説得力のある再現」(ゴンブリッチ)と捉えれば、錯覚のおかげでわれわれがいかに豊かな世界を手にしているかが理解できよう。古典的には絵画の遠近法(投影法)やアニメーション(仮現運動)、より最近では三次元コンピュータグラフィックス(3GCG)やMP3の圧縮原理(マスキング効果)などは、いずれも人間の錯覚(感覚の騙されやすさ)を逆手に取った技術である。ゼウクシスとパラシウスの神話が物語るように、芸術とはそもそも「イリュージョンの技」である、とも言える。
 本講義は、そうした錯覚の理論と実例を理解することを通じて、最終的にはわれわれの感性や知性の働きへの理解をいっそう深めることを目標とする。
【参考文献】
W・ジェームズ『心理学』(原著、1892年)、今田寛訳、上・下、岩波書店、1992〜93年.
E・H・ゴンブリッチ『芸術と幻影』(原著、1960年)、瀬戸慶久訳、岩崎美術社、1979年.
W・J・T・ミッチェル『イコノロジー──イメージ・テクスト・イデオロギー』(原著、1986年)、勁草書房、1992年.
R・N・シェパード『視覚のトリック──だまし絵が語る〈見る〉しくみ』(原著、1990年)、鈴木光太郎・芳賀康朗訳、 新曜社、1993年.
加藤尚武『形の哲学──見ることのテマトロジー』、中央公論社、1991年;『「かたち」の哲学』、岩波書店、2008年.
J・ニニオ『錯覚の世界──古典からCG画像まで』(原著、1998年)、鈴木光太郎・向井智子訳、新曜社、2004年.
船木亨『〈見ること〉の哲学──鏡像と奥行』、世界思想社、2001年.
Ph・マクノートン『錯視芸術──遠近法と錯覚の科学』(原著、2007年)、駒田曜訳、創元社、2010年.
柏野牧夫『音のイリュージョン──知覚を生み出す脳の戦略』、岩波書店、2010年.

錯覚については、是非とも今考えていることを論文にしたいと思っているのですが、なにぶん錯覚(イリュージョン)は範囲が広い(外延が曖昧)ので、どこに議論を絞るかによって、使用する文献や依拠する方法論、目指すべき結論(達成)がまったく変わってくるので、難儀してます。
まだ調べ始めたばかりですので、いい文献や面白い話題があったら教えて下さい!
[2012.1.21追記]「古典古代(語)に錯覚の概念はありえないよなあ」と思い、気になって調べたのですが、「錯覚」という意味でのillusionという語は、古典語には無いんですよね。この語の語源であるラテン語の動詞illudoは「からかう」という意味でしかない。ちなみにこのilludoは、私もさっき知ったのですが、il(in)+ludusで「遊びの中に引き込む」ということです。あーら不思議、錯覚論とゲーム論が一気につながってしまいましたよ。自分の直感に従ってどんなことでもゴリゴリ調べていけば、最終的にはすべてがつながってくる、という好例かもしれません。チャンチャン。

”Music and Philosophy” Conference 2012

私が顧問委員を務めます英国王立音楽協会「音楽と哲学」研究部会の2012年カンファレンスの案内が本家サイトに出ました。それに伴いまして、ニック・ザングウィル氏からの依頼を受け、日本(語)での告知をこのブログで行います。
詳細は本家サイトをご覧下さい。

英国王立音楽協会「音楽と哲学」研究部会
カンファレンス 2012

われわれの二度目の年次大会が、アメリカ音楽学会の「音楽と哲学」研究部会との連携のもと開催されます。
会場はロンドン大学キングス・カレッジ、日程は2012年7月20日〜21日です。
発表希望の方はここをご覧下さい。
また計画中のカンファレンスについて最新の情報を知りたい方は、ぜひわれわれのメーリングリストにご参加下さい。
(本家サイトの右のボックスからご登録下さい。)

この流れだと、次にニックに会ったときには、お前が日本(音楽学会)でも「音楽と哲学」研究部会を作ってくれ、という話になるかも知れません。世話人程度ならできるかもしれませんが、中身(コンテンツ)となると自信がないですね、「音楽と哲学」。最近そんな立ち位置ばっかりでお恥ずかしい限りですが。

2011年にもっとも驚いた偶然

昨年、私が事務局長になって「立命館大学ゲーム研究センター」(RCGS)なるものを設立しました。そのことはすでに何度かお知らせしている通りです。
そしてそこの客員研究員の第一号として、フィンランドからヤッコ・スオミネン(Jaakko Suominen)さんという産業政策論の研究者を受け入れました。それももしかしたら折に触れてこのブロクでもお知らせしているかも。
(ちなみに「スオミネン」というのはフィンランド語で「わが国の人」という意味です。日本語だったら大和さんといった感じでしょうか。「ヤッコ」はヤコブフィンランド語ですので、それなりに一般的な名前かと思われます。)
昨年、ヤッコさんは「ビデオゲーム産業における過去(のレガシー)の活用」というテーマで、フィンランドの国家技術庁(TEKES)のファンドを受けて、一年間のサバティカルで世界中を回っており、その最後に日本に立ち寄った格好です。彼の関心はとくに1980年代にあるので、やはり日本に来なくては、と思いながら、日本ではあまりその手の研究者を受け入れる学術機関がなく、困っていた矢先に、立命館大学がゲームを専門とする研究センターを作ったということを人伝に聞いて、連絡してきたのです(私と彼との間に二人が挟まっていました)。向こうにとってはRCGSの設立はまさに「渡りに船」でしたが、われわれとしても、そのような海外のゲーム研究者の受け入れ先(が現在の日本ではほとんど無いこと)を意識してこのセンターを作ったので、直ちに反響があって嬉しかったです。
ヤッコさんとは10月に行われたRCGSの「キックオフカンファレンス」や立命館大学国際言語文化研究所(言文研)との共催企画「グローバリゼーションのなかのビデオゲーム」でご一緒できた他、彼が京都で行ったゲームセンター&パチンコ屋のフィールドワークにも私が同伴しました。また彼は奥さんを連れてきていたので、こちらも自分の家族を紹介し、家族ぐるみでのお付き合いができました。わずか三ヶ月の滞在でしたが、たいへん充実した時間を持てました。惜しむらくは、ちょうどその時期私が忙しすぎたので、あまり密に勉強会やディスカッションが持てなかった(双方の研究へのきちんとしたリスポンスができなかった)ことですが。
ただし、今日書きたいのは直接彼のことではなく、別のことです。
以前、私が『ヴァーグナーの「ドイツ」』を書いたときに、一番影響を受けた先行研究がハンヌ・サルミ(Hannu Salmi)という人の『Imagined Germany』という本なのですが、これがフィンランド人の手によるものということは知っていたので、ヤッコさんに私の研究室でこの本を見せた際にそのことを伝えました。そうしたら何と、サルミ氏は彼の博士論文指導教授だと言うではないですか。確かにサルミ氏の本には「トゥルク大学文化史学部教授」というプロフィールがあり、ヤッコさんの名刺にも同じ名称が記してあります。世界が狭いのか、フィンランドの学術界が狭いのか(フィンランドの大学人は「国内市場」だけでは食べていけないらしい)、はたまた単なる偶然なのかは分かりませんが、これには驚かされました(もちろん、向こうは私がヴァーグナーの本を書いていることなど事前に知らなかったため、もっと驚いていましたが)。同じフィンランド人ということは知っていても、ヴァーグナービデオゲームとではあまりに遠すぎるので、両者の直接の結びつきに私の想像力が及びませんでした。
もっとも、日本でもヴァーグナーの本を出した人間がビデオゲーム研究をやっているのですから、フィンランドヴァーグナーの研究をしている学者がビデオゲームの博士論文を指導していても何の不思議もないですよね(?)。
このあり得ない「出会い」にいたく感激した私は、どうせ全部日本語だから読めないだろうと分かりつつ、自分にサルミ氏へのサインをして、人名索引の「サルミ、ハンヌ」の項に鉛筆で丸を付けて、ヤッコさんに託しました(本当は私がヴァーグナー論を英語かドイツ語でも出せたらいいのですが、今のところその予定はありません。御礼と御協力はたっぷりいたしますのでどなたかやってくださればと(笑))。
それ自体はけっこう前の話で、私もすっかり忘れていたのですが、昨年末にフィンランドに帰国したヤッコさんから本を手渡されたサルミ氏から、先日御礼のメールをいただき、つい今しがた返事を送ったところなので、思い出したついでにここに書いてみることにしました。昨年も本当に様々な偶然や幸運(だけではないですが)に見合われましたが、これはその中でも第一級の印象深い出来事でした。
今年も皆様ともに充実した一年を歩みたいと思っておりますので、引き続きよろしくお願いします。

東京芸術大学での集中講義(12月19日〜21日)

明日から三日間、東京芸術大学音楽学部で集中講義を行います。
私が芸大で音楽の講義をすると言うと「応用(音楽学)の方ですか?」と聞かれる方がけっこういるのですが、楽理科(上野)の方です。
音楽学の講義は本当に(何年ぶりだかすぐには思い出せないくらい)久しぶりですし、この先いつまたやるか分からない(あるいはこれで最後?)ということもあり、自分の専門領域(近代ドイツ音楽思想)よりも、自分がこれまで音楽学を勉強してきた中で一番面白いと感じており、かつ学生の皆さんに是非とも伝えたい(共有してもらいたい)テーマをやろうと思い、「音楽学にとって歴史/作品/聴取とは何か?」という大きなテーマに出ました。シラバスコチラからどなたでも読めます。
「歴史」編では、ダールハウス音楽史の基礎』(古めですが結局これをこえる濃密なテキストがない)の読解を中核に、ヘイドン・ホワイト以来の歴史叙述理論の流れやレオ・トライトラーによる「ニューミュジコロジー」的な歴史批判を検討します。
「作品」編では、音楽作品の哲学の歴史と現状を理解します。音楽の定義や音楽作品の定義(あるいはジャンルによる偏差)の話も当然出てきます。このテーマについて日本語で読める稀少な文献である増田聡と渡辺裕のテキストを手がかりにして、分析美学の系譜を遡るかたちで、グッドマン、マーゴリス、インガルデン、パースの諸説を理解します。
「聴取」編では、私の大好きなニコラス・クックの理論を参照しながら「作曲と演奏と聴取は、それぞれどのように異なる音楽的能力が要求される、どのように異なる音楽的行為なのか?」という問いを作曲理論、音楽分析理論、音楽心理学認知言語学など様々なアスペクトから考えます(それらの諸方法論に精通しているのはもちろん私ではなくクックなのですが)。余談ですが、最近私があちこちで(ブレインストーミング的に)話している「娯楽としての音楽/音楽における楽しさ」というテーマを考える上で、認知(あるいは音楽の認知能力と遂行能力の関係)の問題は最重要です。
すでに受講生にはお伝えしてありますが、講義で使用するテキストは以下の通りです。

カール・ダールハウス/角倉一朗訳『音楽史の基礎概念』第一章〜第三章
ネルソン・グッドマン「引用に関するいくつかの問題」(ネルソン・グッドマン著/菅野盾樹訳『世界制作の方法』第三章)
渡辺裕「「音楽作品」概念の再検討」(渡辺裕『西洋音楽演奏史論序説』第一章)
増田聡「作品概念の分析美学」(増田聡『その音楽の〈作者〉とは誰か』第七章)
ニコラス・クック/足立美比古訳『音楽・想像・文化』第二章
ニコラス・クック「知覚──音楽理論からの展望」(倉方憲治訳、リタ・アイエロ編/ジョン・A・スロボダ協力『音楽の認知心理学』第三章)

聴講生の皆さんには、学年や専攻(理論系か実技系か、など)に関係なく上記のテキストのレジュメ作成をしてもらうという、きわめてハードな(と思われる)事前の準備課題を出しました。
若い人は(私も含めて)いっぱい勉強しなくてはなりませんので(笑)少々ハードですが、三日間、一緒に頑張りましょう。
なお宿泊は普通のホテルではなく、かの高名な(?)学内施設「不忍荘」(コチラを参照)を予定しています。20日の17:00からは、その不忍荘の広間で、有志(日本語で「志を有する人」の意)による懇親会かつ交流会かつ忘年会を行う予定です。誰でもあり、何でもあり(ただし翌日の授業に支障の無い範囲)ですので、ご関心のある方はどうぞ(と誰に向かって言っているのか分からない上に、スペースに余裕があるのかどうかも知らないのですが…)。授業とは関わりなく、美術(美学)の学生や作曲の学生も参加予定です(しかも何と立命館先端研のアノ方も闖入するとかしないとか)。
それにしても、年末に集中講義を入れると「師走感」が三倍増しくらいになるので、今後この時期の集中講義は避けようかしら、そう考えていた矢先に、ご近所さんでもある某視覚文化研究者が何と12月26日から集中講義のために西方に出張するということをうかがって(忘年会兼「女児衣料譲渡会」の日程調整の際に発覚)これはますます負けてはいられないな(正確には、真似したくないな)と思った次第です(その時期に学生が来るのでしょうか? というか大学が機能しているのでしょうか?)
とくに私、今年に限って例外的に本務校の学部(文学部)でゼミ生を持っているので、そこでの卒論の提出期限がこの出張と重なり、現在かなり「師走感」がアップしております。何というか、まあ、この日記のための気の利いたオチも考えつかないくらいの切羽詰まり度です。

「ゲームは芸術か」(『京都新聞』11月21日)

私が企画した文化庁メディア芸術祭京都展エンターテインメント部門のシンポジウム「メディア芸術の中のゲーム──これまでとこれから」(11月5日、京都国立近代美術館)について、先日ご案内した毎日新聞に続き、京都新聞でも記事が出ました。私この新聞をチェックしていないので、本日知らされました(取材を受けたのでそのうち出るかもなとは思っていましたが)。一応まとめておくと、

「メディア芸術の中のゲーム──左京でシンポ 教授ら変遷紹介」『毎日新聞』(京都版、朝刊、2011年11月12日)→コチラ
「ゲームは芸術か──作者の思想、内面の表現手法に 京でシンポ」『京都新聞』(朝刊、2011年11月21日)→コチラ

このシンポジウムはけっこうアテンションが高かったようで、企画者としては嬉しい限りです。というより、他の部門に何とか顔向けができたかなと、ホッとしています。今思うと「メディア芸術の中のゲーム」という(あえて初心者向きにキャッチーに付けた)テーマも良かったのかも知れません。最近の私はほとんど「アート」の文脈で日頃モノを考えていないので、このテーマだと責任取れないよなーと少し不安だったのですが、分かりやすいですよという事務局の後押しもあり、今回は「メディア芸術祭の中でどうしてゲームなの?」という素朴な問いをそのまま表に出しました。
(なお私が言うところの「感性学」とは、認知科学や人間工学とも共通するテーマに人文系の視点からアプローチしようとするものです。これまでの「美学」(としてのエステティックス)はこれを怠ってきた、というのが私の見方です。そういう訳で最近はほとんど芸術(アート)に関心が無くなってしまいました(単純にアートがよく分からない、ということもあります)。ただし今回最新の動向に触れてみて、メディアアートは面白いな、先が開けている業界だな、作家の活動の場もますます(いわゆるアートの外の世界・文脈に)広がっていきそうだな、と思いました。)
記事の最後にあるコメントは後日私が電話取材でお話しした内容です。もう少しオブラートに包んで言ったはずなのですが、あまりに直截的なので企業の方がご覧になったら怒られるかも知れません(笑)。ただし「面白さを直接表現していた初期の作品の分析やデザインの研究」は自分の仕事だと本気で思っていますし、実際少しずつ着手しています。多分そのなかで、私がこれまで美学(としてのエステティックス)や芸術学から学んできた概念やメソッドが活かせるはずだと信じています。
(ですが、この冬は東京芸術大学音楽学部・研究科)での集中講義やドイツ音楽本の執筆などがあるために、しばらくは音楽学者モードに戻ります。)

「分析哲学と芸術」研究会(feat. 森功次&今井晋)

私が顧問を務める学生主体の研究会で以下の特別企画を行います。
森功次さん今井晋さん(a.k.a. 死に舞)という今をときめく二人の若き美学者(お二人とも立命館は初見参だと思います)をお招きしますので、関西方面の美学、哲学、芸術学関係者はぜひともご参加下さい。
なお翌日12月2日(金)にもお二人を交えてゲーム関連の研究会を予定しています(詳細が決まり次第、お知らせします)。
お問い合わせは下記の田邉さんか、あるいは吉田までお気軽にどうぞ。

分析哲学と芸術」研究会・特別レクチャー&セミナー
日時:12月1日(木)13:00〜17:20
場所:立命館大学衣笠キャンパス)創思館303/304号室(→キャンパスマップはこちら
※事前申し込み不要・参加費無料

(1)レクチャー(13:00〜14:00)
森功次「われわれは芸術作品の価値をどのように査定すべきなのか?──不道徳作品を中心に」
(2)レクチャー(14:10〜15:10)
今井晋「What is the aesthetic?−シブリー(Sibley, F.)以降の美的なものの議論を概観する」
(3)セミナー(15:20〜17:20)
レクチャーに対する質疑応答/森功次「作品の倫理性が芸術的価値にもたらす影響――不完全な倫理主義を目指して」(仲正昌樹編『叢書アレテイア(13) 批評理論と社会理論〈1〉アイステーシス』御茶の水書房、2011年所収)の合評会

その後、懇親会(詳細未定)を予定しています。

連絡先:
田邉健太郎立命館大学大学院先端総合学術研究科表象領域3回生)
gr0086hv[at]ed.ritsumei.ac.jp
(主催:立命館大学大学院先端総合学術研究科/共催:文部科学省科学研究費補助金 若手研究(B)「五感の編成と序列に関する美学史的研究」)