大学教員の領分とは

最近、日々ますます「時間の無さ」を痛感することもあり、自分がどのような種類の仕事に時間/労働/リソースを割いて(割かれて)いるのかをこの際きっちり把握しようと思い立ち、できるかぎり合理的かつ網羅的に分節してみることにしました。自分としても今さら感はありますが、大学教員がどのような時間の使い方をしているか、外からはあまり見えにくいと思いますので、何らかの役に立つ情報になるかも知れません。とはいっても、個人の差(研究分野/年代/活動地域など)が大きいですし、あくまでも私(周辺)の視点で捉えたものですので、それほどの一般性はありませんが。
(1)本務校(自分の所属大学)での仕事
・授業/試験
・学生や院生の研究/論文指導
・入試関連業務
・教授会・各種委員会
本務校というのはその教員が主たる給与を貰っている所属機関です。大学教員は皆さん、多い場合には週に五日以上、少ない場合でも週に二日程度は、本務校(で)の仕事をしていると思われます。
また大学教員が研究室(ラボ)を持てるのは基本的には本務校だけですから、授業等が無くても研究室がそこにある限り、本務校がその教員にとっての研究・教育の拠点となります。私も自宅に仕事部屋はありますが、諸々の理由でなかなか仕事が手に付かないことが多く、とくに授業等がなくても結局は研究室に行って仕事をすることが多いです。
(2)他大学(本務校以外の大学)での仕事
・非常勤での講義(集中講義を含む)
・学位論文の審査
・第三者委員会等
これは一見すると「余計な仕事」に見えますが、本務校での仕事に劣らず、大切です。なぜなら「他大学の教員の協力」が無くては、どの大学も成り立たないからです。カリキュラムを組む上ではかなりの数の学外の非常勤講師が必要ですし、博士論文等の審査にはほとんどの場合「学外の審査員」が必要ですし、大学評価等にかかわる第三者委員会にも学外者の視点が必須です。設計の良し悪しは別として、大学という組織は(歴史的には知りませんが現代の日本では)「他大学教員のボランティア的コミットメント」を前提にして営まれています。
従って、もしも自分がそれらの仕事をお願いしたことがある方からの協力依頼はお断りできませんし、かりにそうした「借り」が無い人の場合でも、将来、何かのときにこちらからお願いする可能性を考えれば、やはりお断りできません。とはいっても時間には限度がありますから、最終的には義理人情の世界になってきます。
「大学教員」の仕事として通常(学生等から)見えている部分は、だいたい上記の(1)と(2)に収まると思います。実際それだけでかなりの時間/労力が割かれているわけですが、「研究者」として眺めた場合、まだまだあります。
(3)大学以外の研究機関での仕事
・学会や研究会の運営
・海外の研究者との交流
学会や研究会は、大学教員や研究者(研究所や企業等に所属する人達も含めた)、そのタマゴ達が集う場であり、日常的な研究活動の母体です。学会や研究会で得た知識や情報を、それぞれの研究者(教員も学生も)がそれぞれの大学に「持ち帰り」、そこで深めたことを今度は学会や研究会に「持ち出す」、その往復こそが理想的な研究の営みであり、大学だけで閉じるのも学会・研究会だけ閉じるのもダメだと私は考えています。
とくに私の場合、もっぱら大学院生の相手をしているので、(3)と(1)の結びつきも強いです。自分が所属する学会・研究会に自分の指導する学生を連れて行く(紹介する)のは基本として、自分は所属していないが学生が所属(発表)する学会・研究会にも出入りしたり、あるいは、学生が発表できそうな場かどうかを確かめるために、未知の学会・研究会に私が「偵察」に行ったりすることもあります。
また大学教員・研究者のクオリティを計りたい場合には、大学内の評判よりも、学会内の評価の方が確かなことが多いです。学会内でまともな仕事・活動をしていない人が、大学内でめざましい教育・活動実績をあげた例は寡聞にして知りません。
また私の考えでは、海外の研究者との交流も(そのメインの部分が)ここに含まれます。大学というのは(その成り立ちや下部構造からみて)基本的に「ナショナルな(国の)利害システム」とガッチリ結びついている場ですから、「国際化」は個々の学生・教員の自由な活動に任せるしかない、(1)や(2)で謳われる「国際化」は空虚なフィクションか、本人達も真剣にやっていない「お遊び」にすぎない、というのが(ハンス・ヴァイラー=北川東子経由の)私の持論です。
そういう意味では(1)と(2)の領域でできないことが(3)の領域ではできます。もちろん逆もたくさんありますが。
(また最近、注目されている問題に(3)でのハラスメントがあります。大学は組織として(アカデミック・)ハラスメントを防止するガイドラインをそれなりに作ることができますが、学会・研究会等では制度上それを防止する術を持たず、多くの場合「野放し」になっています。学会での発表や論文投稿に絡むハラスメント行為は、明らかに「アカハラ」であるにもかかわらず、それを取り締まる仕組みや機関がない、という問題です。ただし一部の学会(日本社会学会等)ではこの問題をきちんと認識し、対処を始めていると聞いています。)
(4)研究機関以外での/との仕事
・行政/自治
・公的機関(博物館/美術館)
・企業
NPO
・メディア/ジャーナリズム
研究者としてのスペックをフルに発揮するわけではありませんが、研究者という立場でそれ以外の人々と広くつながっていくための仕事です。研究の「裾野を広げる」活動です。
人によっては、いわゆるアウトリーチとか産学官連携とか産学地(地域の「地」)連携とか社会貢献とか社会連携とか言うこともあります。私自身はそういうお題目はどうでもいいと考えているので、ニュートラルに「研究機関以外での/との仕事」と捉えています。
具体的に私の場合でいえば、文化庁経産省京都市、国公私立の美術館や博物館、芸術・音楽関連団体・企業、ゲーム企業、各種NPO等との仕事がこれに入ります。
新聞やテレビ等メディアの取材に応じることなども、ここに含めていいと思います。ブログやツイッター等での情報発信も(その種類によっては)ここに含めてもいいものがあります。
ときに(3)との境界が曖昧ですが、私は分けて捉えています。
また、例えば私が京都市と仕事をするときは、研究者(プロフェッショナル)としてやる、というだけでなく、そこで生活や育児を行う地域住民の一人として自分の得意分野を活かして地域貢献を行うという意義もありますので、(6)と境界が曖昧になることはあります。実際、地元で私が関わるイベントを行うときには、隣近所にフライヤーを配ったり、子どもたちを連れて行ったりしますし。
(5)物を書く仕事
大学教員の「物書き」としての仕事は実は多種多彩で、大学内の出版物(紀要等)に書く場合には上記(1)や(2)に、学会誌等に書く場合には(3)に、新聞や雑誌等に書く場合には(4)に、それぞれ含まれるという見方も可能です。ですが私は、それらには含まれない、「誰に頼まれたわけではなく、研究者として孤独に営んでいる領域」としてこの(5)をポジティヴに捉えています。孤独というのは(編集者とつねに二人三脚とはいえ)組織人としての、義務を負っていない仕事ではないと言う意味です。
端的にいって「私が私の名前で本を出すこと」は、直接的にはとくに誰のためにもなりません。大学のためにも学会のためにもなりません。大学や学会はむしろそのための時間を別のこと(それらの組織の運営等)に割いて貰う方が正直ありがたいでしょう。従って、自分の所属する大学や学会のことは常に(ありうべき読者として)念頭にありますが、別にそれらの「ために」書くわけではありません。あえて言えば、むしろ(1)〜(4)の領域では出会うことのないような読者のために書いている、という感覚でしょうか。
純粋に自分のためという性格から帰結して、必然的に、あまり時間が割けないのがとても辛いところですが、私にとって、ある意味でもっとも大切な領域です。何と言っても死んだら本しか残りませんからね(笑)。
(6)その他の仕事/仕事以外にやっていること
睡眠/食事/育児/人付き合い/ボランティア/地域での仕事などなど、プライバシーも余暇もへったくれもなく、私の場合、その他の諸々が全部この一つのカテゴリーにぶち込まれています。そしてどのみち総時間がそんなに取れないので、カテゴリーをそれ以上分割しても仕方ないと思っています。
以上、自分で書いていてゲンナリしましたが、そのかいあってだいぶ人生の見通しがスッキリした気がします。何年かに一度、こういう作業をするのはいいことかも知れません。これ以上、カテゴリーを増やし無くはない(つまり(7)を作りたくない)ですし、あわよくばスクラップ&ビルドを行っていきたいと考えておりますので、皆様ご協力のほど、よろしくお願いします(笑)。