錯覚(イリュージョン)の感性学(のメモ)

以下、来年度に集中講義でお邪魔する某大学のシラバスに書こうと思っていること(のメモ)です。
ふだんはあまりそういうものをこういうところで書く趣味や習慣はないのですが(講義のシラバスは、研究者間でもっと公開しあって、チェックしあうようにすべき、とは思っている)、最近私が考えている錯覚論はこんなもの、という紹介にはなるかなと思い、書いてみる次第。

【科目の概要】
錯覚(イリュージョン)の感性学
【科目のねらい】
錯覚(イリュージョン)を導きの糸として、美学=感性学(エステティックス)への再接近を試みる
【授業計画】
 錯覚(イリュージョン)とは、感覚器官が正常であるにもかかわらず対象物に対して誤った知覚や認識を得てしまう現象である。それは正常な感覚を備えた人が普遍的・恒常的に経験する点で、幻覚とは異なる。だが錯覚は「感覚の誤謬」ではなく、むしろ人間にとって有用な情報処理過程(知覚補正)の結果である(グレゴリー)。錯覚は、人間の知覚がいかに精巧に──日々直面する状況に柔軟に適応できるように──できているかを示す現象なのである。
 他方で、錯覚を「説得力のある再現」(ゴンブリッチ)と捉えれば、錯覚のおかげでわれわれがいかに豊かな世界を手にしているかが理解できよう。古典的には絵画の遠近法(投影法)やアニメーション(仮現運動)、より最近では三次元コンピュータグラフィックス(3GCG)やMP3の圧縮原理(マスキング効果)などは、いずれも人間の錯覚(感覚の騙されやすさ)を逆手に取った技術である。ゼウクシスとパラシウスの神話が物語るように、芸術とはそもそも「イリュージョンの技」である、とも言える。
 本講義は、そうした錯覚の理論と実例を理解することを通じて、最終的にはわれわれの感性や知性の働きへの理解をいっそう深めることを目標とする。
【参考文献】
W・ジェームズ『心理学』(原著、1892年)、今田寛訳、上・下、岩波書店、1992〜93年.
E・H・ゴンブリッチ『芸術と幻影』(原著、1960年)、瀬戸慶久訳、岩崎美術社、1979年.
W・J・T・ミッチェル『イコノロジー──イメージ・テクスト・イデオロギー』(原著、1986年)、勁草書房、1992年.
R・N・シェパード『視覚のトリック──だまし絵が語る〈見る〉しくみ』(原著、1990年)、鈴木光太郎・芳賀康朗訳、 新曜社、1993年.
加藤尚武『形の哲学──見ることのテマトロジー』、中央公論社、1991年;『「かたち」の哲学』、岩波書店、2008年.
J・ニニオ『錯覚の世界──古典からCG画像まで』(原著、1998年)、鈴木光太郎・向井智子訳、新曜社、2004年.
船木亨『〈見ること〉の哲学──鏡像と奥行』、世界思想社、2001年.
Ph・マクノートン『錯視芸術──遠近法と錯覚の科学』(原著、2007年)、駒田曜訳、創元社、2010年.
柏野牧夫『音のイリュージョン──知覚を生み出す脳の戦略』、岩波書店、2010年.

錯覚については、是非とも今考えていることを論文にしたいと思っているのですが、なにぶん錯覚(イリュージョン)は範囲が広い(外延が曖昧)ので、どこに議論を絞るかによって、使用する文献や依拠する方法論、目指すべき結論(達成)がまったく変わってくるので、難儀してます。
まだ調べ始めたばかりですので、いい文献や面白い話題があったら教えて下さい!
[2012.1.21追記]「古典古代(語)に錯覚の概念はありえないよなあ」と思い、気になって調べたのですが、「錯覚」という意味でのillusionという語は、古典語には無いんですよね。この語の語源であるラテン語の動詞illudoは「からかう」という意味でしかない。ちなみにこのilludoは、私もさっき知ったのですが、il(in)+ludusで「遊びの中に引き込む」ということです。あーら不思議、錯覚論とゲーム論が一気につながってしまいましたよ。自分の直感に従ってどんなことでもゴリゴリ調べていけば、最終的にはすべてがつながってくる、という好例かもしれません。チャンチャン。