東京芸術大学での集中講義(12月19日〜21日)

明日から三日間、東京芸術大学音楽学部で集中講義を行います。
私が芸大で音楽の講義をすると言うと「応用(音楽学)の方ですか?」と聞かれる方がけっこういるのですが、楽理科(上野)の方です。
音楽学の講義は本当に(何年ぶりだかすぐには思い出せないくらい)久しぶりですし、この先いつまたやるか分からない(あるいはこれで最後?)ということもあり、自分の専門領域(近代ドイツ音楽思想)よりも、自分がこれまで音楽学を勉強してきた中で一番面白いと感じており、かつ学生の皆さんに是非とも伝えたい(共有してもらいたい)テーマをやろうと思い、「音楽学にとって歴史/作品/聴取とは何か?」という大きなテーマに出ました。シラバスコチラからどなたでも読めます。
「歴史」編では、ダールハウス音楽史の基礎』(古めですが結局これをこえる濃密なテキストがない)の読解を中核に、ヘイドン・ホワイト以来の歴史叙述理論の流れやレオ・トライトラーによる「ニューミュジコロジー」的な歴史批判を検討します。
「作品」編では、音楽作品の哲学の歴史と現状を理解します。音楽の定義や音楽作品の定義(あるいはジャンルによる偏差)の話も当然出てきます。このテーマについて日本語で読める稀少な文献である増田聡と渡辺裕のテキストを手がかりにして、分析美学の系譜を遡るかたちで、グッドマン、マーゴリス、インガルデン、パースの諸説を理解します。
「聴取」編では、私の大好きなニコラス・クックの理論を参照しながら「作曲と演奏と聴取は、それぞれどのように異なる音楽的能力が要求される、どのように異なる音楽的行為なのか?」という問いを作曲理論、音楽分析理論、音楽心理学認知言語学など様々なアスペクトから考えます(それらの諸方法論に精通しているのはもちろん私ではなくクックなのですが)。余談ですが、最近私があちこちで(ブレインストーミング的に)話している「娯楽としての音楽/音楽における楽しさ」というテーマを考える上で、認知(あるいは音楽の認知能力と遂行能力の関係)の問題は最重要です。
すでに受講生にはお伝えしてありますが、講義で使用するテキストは以下の通りです。

カール・ダールハウス/角倉一朗訳『音楽史の基礎概念』第一章〜第三章
ネルソン・グッドマン「引用に関するいくつかの問題」(ネルソン・グッドマン著/菅野盾樹訳『世界制作の方法』第三章)
渡辺裕「「音楽作品」概念の再検討」(渡辺裕『西洋音楽演奏史論序説』第一章)
増田聡「作品概念の分析美学」(増田聡『その音楽の〈作者〉とは誰か』第七章)
ニコラス・クック/足立美比古訳『音楽・想像・文化』第二章
ニコラス・クック「知覚──音楽理論からの展望」(倉方憲治訳、リタ・アイエロ編/ジョン・A・スロボダ協力『音楽の認知心理学』第三章)

聴講生の皆さんには、学年や専攻(理論系か実技系か、など)に関係なく上記のテキストのレジュメ作成をしてもらうという、きわめてハードな(と思われる)事前の準備課題を出しました。
若い人は(私も含めて)いっぱい勉強しなくてはなりませんので(笑)少々ハードですが、三日間、一緒に頑張りましょう。
なお宿泊は普通のホテルではなく、かの高名な(?)学内施設「不忍荘」(コチラを参照)を予定しています。20日の17:00からは、その不忍荘の広間で、有志(日本語で「志を有する人」の意)による懇親会かつ交流会かつ忘年会を行う予定です。誰でもあり、何でもあり(ただし翌日の授業に支障の無い範囲)ですので、ご関心のある方はどうぞ(と誰に向かって言っているのか分からない上に、スペースに余裕があるのかどうかも知らないのですが…)。授業とは関わりなく、美術(美学)の学生や作曲の学生も参加予定です(しかも何と立命館先端研のアノ方も闖入するとかしないとか)。
それにしても、年末に集中講義を入れると「師走感」が三倍増しくらいになるので、今後この時期の集中講義は避けようかしら、そう考えていた矢先に、ご近所さんでもある某視覚文化研究者が何と12月26日から集中講義のために西方に出張するということをうかがって(忘年会兼「女児衣料譲渡会」の日程調整の際に発覚)これはますます負けてはいられないな(正確には、真似したくないな)と思った次第です(その時期に学生が来るのでしょうか? というか大学が機能しているのでしょうか?)
とくに私、今年に限って例外的に本務校の学部(文学部)でゼミ生を持っているので、そこでの卒論の提出期限がこの出張と重なり、現在かなり「師走感」がアップしております。何というか、まあ、この日記のための気の利いたオチも考えつかないくらいの切羽詰まり度です。