しょせんは他人である
うちが子育てを始めてから六年余り。上の子は春から小学生。
最近はすっかり慣れてきて(別様に言えば感受性が鈍化してきて)育児のなんたるかについてあまり思考しなくなったが、たまたま今、周囲が出産ラッシュで(私の世代の関係上か、第二子というケースが多い)身近な人たちが赤子を抱えて頑張っているのをみて、こちらも育児についてつらつらと振り返ったりしている。
最初の子どもが生まれた直後に、諸々手探り状態の中で、妻が言い出して私も同意したのが、「この子は自分のものではない、しょせん他人である」という認識を基本線としてやっていこうということ。
というのも、子どもを「自分のもの」と考える(考えたがる)ところから、親子の関係が色々とおかしくなるのかなと、妻も私も考えたから。まずはそうした考え方を遠ざけておこうと。
つまり、この赤ちゃんは「他人」であると。とくに新生児とか、半日放っておくと死んじゃうわけね。でもあくまでも「他人」。こんなに弱くて、こんなに全面的に誰かに依存しないと生きられなくて、そんな存在が目の前にあって、すごく愛おしくて。でも「他人」。
しょせんは(自分の子ではあるけど)「自分のもの」ではない「他人」。たかが「他人」。もちろん自分の所有物ではないし、自分の価値観や気持ちを共有してもらうことすらできず、結局は親とは別の人生を歩んでいく存在。それを社会に出るまでの一時、預かっているだけ。それが親という存在。誰に命じられたわけでもなく、何の義理もないのに、そんな「他人」をまっとうに世に送り出さなくてはならないのが親という存在。
しかし、半日放っておけば死んでしまうような「他人」が目の前にただ泣きながら転がっているという事態は実に不条理ではないか。そう完全に不条理だ。だがその「目の前の不条理」を受け容れることが親になる第一歩ではないか、そもそもわれわれの日常生活全体がそうした不条理の上に成り立っている、という現実を受け容れることこそがオトナになる第一歩ではないか、とも考えた。実際そうした脆弱無力なる「他人」、全面的に誰かに依存して生きている「他人」は、実は赤子以外にも、世の中にたくさん存在しているのだから。われわれは、目の前の(「自分の」)赤子に対するのと同じくらいの切迫感をもって、そうした人たちに手をさしのべる(さしのべざるを得ない)が、そうした人たちとてやはり「他人」なのだ。
そして、そのことを学んだ(知った)だけでも、親になった甲斐があったというものではないか、と当時の私は感じたものだ。もっともそれは私が「浅はか」だったからにすぎず、親にならずともちゃんと分かっている人もたくさんいるのだろうが、とも。
とにかく、そう考えるようになってから、育児がだいぶ楽になった気がする(ついでに言えば、教師としての仕事と親としての仕事を自分の中で「一本化」できたような気がする)。
これからも、うちの家族の状況は刻々と変わるだろうが、この「子どもは自分のものではなく、しょせん他人」という基本認識は変わらない(変えない)だろうなと思う。
ということを、たまたま思い出したので、「子育てかくあるべし」的な物言いが一般にきわめてカッコ悪いことを承知の上で、記念に書いておきます。すみません。