メディア芸術オープントークに行ってきた

当日感じたことを三点ほど書きます。
(1)「芸術」という日本語をめぐって美学徒が共有している「常識」が、他の分野の人々(しかも現代の日本における第一線の社会学者や理論派アーティスト)にまったく共有されていないようなのだが、それでいいのか。
前にも少しふれたが現在、日本の文化行政レベルでは「芸術」概念が(今さら)混乱していて、様々な「アート」の上位概念として「アーツ」を設けたり、また「芸術」の定義が分からなくなったものだから、素人が中途半端に歴史を遡ろうとして、「芸という字はもともと怪しいものを指した」とか「〈技術〉という語との差異化を図って〈芸術〉という語が定着したと思われる」といった危なっかしい推論が目の前で堂々と展開されるのを聞いていると、美学徒がやっている(きた)歴史研究は一体何のためのものか、という悲しい気分になる。日本における「芸術」概念の形成など、詳細にいたるまでさんざん研究され尽くしてきただろうに。だがこれは単に、文化庁の関係者や他分野の研究者やアーティストに、美学徒の手による関連諸文献を読んで下さい、本も出てますから、と諭せば片付くような問題ではない。別に彼らが怠慢なわけでもない。そうではなく、「概念」の徒も、ときには「批判的介入」をしなくてはならない、ということだ。でもそんなことしたくない。むろん誰だってそうだ。だが、放っておいたらもっと悪くなるのは目に見えているのだから、介入しないことが果たして学者の倫理として善なのか、ということから考え直すべき時ではないのか。自律的美学を理論的に批判できるのなら、学問の自律性を実践的に乗りこえることも容易なはずだ。何十億という予算を振り分けようとする現場で、「概念」が混乱して皆さん困っているのだから、今ここでこそ「概念」の徒である美学者の出番(あくまで無関心的に、だが)なのではないか、と私は思うのだが、違うのか。そうでなければ一体、何のために、また誰のために、われわれは「芸術」概念の歴史研究などをやっている(きた)のか。同じ時代の同じ場所で、学問・芸術・文化行政の世界のトップクラスの面々が必要としている&困っているのだから、おおげさに「介入」などと言わずとも、それらを何も研究室・学会の中だけの知見に留めず、広く世のために提供してさしあげてもよかろう。
(2)音楽は「メディア芸術」なのか否か、という問いが今突きつけられている。
「メディア芸術祭」には音楽部門がないし、現在構想中の「メディア芸術コンソーシアム」事業にも音楽は含まれない。どうしてなのか、入れたらいいのではないか、という質問がフロアから出た。それに対してスピーカーの意見は「音楽には文学との関係がどうしてもくっついてきてしまうが、複製芸術という観点からも音楽はメディア芸術に入れた方が良い」「YMO以降の音楽はすべてメディア芸術でしょうね」と基本的に肯定的であった。言うのは簡単だ、ということもあるわけだが、実際これはどうか。私にはよく分からない。だがこういう議論が必要である、にもかかわらずこれまで誰もやってこなかった、ということは確実に言える。谷口さんがココで書いているように、今日われわれにとっての「音楽」はそのほとんどが(90%以上と仮に言っておこう)録音を介した音楽、すなわち「レコード音楽」だ。だがそうした観点から「音楽」は「メディア芸術」であると言い切ってしまうと、一つの「芸術」自体(この場合、音楽)が「メディア芸術」の中にすっぽり入ってしまうというカテゴリー的混乱が生じてしまう。だったらいちいち「メディア」云々と言わずとも良いだろう。では「生産・創作のためのメディア」と「受容・再生のためのメディア」に分けて、後者の意味でのメディアにのみ関係する音楽(芸術)は「メディア芸術」から除外するか。それもダメだ。今どき、そんな音楽はごくわずかかほとんど存在しないだろうからだ。つまり(幸か不幸か)われわれにとっての音楽は、よく考えれば考えるほど、どうあがいても「メディア芸術」なのだ。だとすると国の「メディア芸術」振興政策から音楽がカテゴリーごとすっぽりと抜け落ちていることは不当ではないのか。アーチストも研究者もそのことを声高に主張していいのではないのか。云々。皆で今議論すべきことはたくさんあるはずなのに、音楽についての(ほぼ唯一の)理論の徒であるはずの音楽系アカデミズムの住人達は(美術や映像の業界と比べて)呑気過ぎやしないか。楽譜中心主義だかライブ至上主義だか知らないが、身の回りはどっぷり「レコード音楽=メディア芸術」に浸食されているというのに、一体どんな「ノアの方舟」気取りなのか。だが「豪雨」が止んで地上に再び降り立つことはなく、そのまま眠り続けるタイムカプセルと化してしまうに違いない。
(3)「外圧」というときの「外」とはどこ・誰・何か?
スピーカーの方々も口を揃えて言っていたように、今回の「メディア芸術コンソーシアム」事業の構想は、明らかに「外圧」によるものである。だが、その場合のわれわれにとっての「外」とはどこ・誰・何なのか? これは入念に腑分けしなくてはならない入り組んだ重層的な問題である。
日本のメディア芸術(サブカルチャー)の価値を「発見」した外国(人)か? これは少し説明されていたが、間違いではない。メディア芸術(サブカルチャー)に関心をもった外国人が日本に来たときに、その期待に応える機関・アーカイブ・プロジェクトがなければ拍子抜けするだろうから。観光資源という面からも大事である。
あるいは、メディア芸術(サブカルチャー)の中にこの先「保護」すべき国内産業を見出した産業界・経済界および政府か? これはわざわざ説明されてはいなかったが、自明の事実として皆に共有されていた(なお最近の某報道によれば、ビデオゲームは「保護すべき国内産業」から外されるかどうかの瀬戸際らしい)。文化に関してさえ「挙国一致」になれず、国内にこうして「内」と「外」の分断が生じてしまうことが、日本の寂しい状況なのかもしれないが。
だが、私がぼんやりと考えたのは、その「外」とは実はわれわれの内側に折り畳まれて(襞のように)入り込んでいるのではないか?ということだ。その証拠に、外圧、外圧といいながら「黒船」の存在はどこにも明示されないし、何よりも今回われわれは自らすすんで喜々として事に当たっていないか? メディア芸術(サブカルチャー)がここまで「国民的」規模で発展・浸透してきたここ数十年の日本の状況を、わざわざ外国(人)の視点を持ち出すまでもなく、当の日本人自身が少なからず「外国」として眺めているのではないか? だとしたら、それを「外圧」として説明することで、より深刻で本質的な文化アイデンティティ(の抗争)が隠蔽されはしないか?
以上、あえて「われわれ」と書いたのは、外野からの無責任な放言的批判にならないよう自戒してのことです。私も関係者(当事者)の一人ですが、私個人がとくに何かを背負おうと強く思っているわけではありませんので念のため。私よりもっと責任がある立場の人々、能力のある人々がたくさんおられますし。