御贈呈多謝(11月〜12月編)

もう今年のブログは終わりだなと思ってましたが、そういえばしばらく忘れていたことに思い当たりまして、この間いただいた御本たちを一挙にご紹介です。いただいた順でなく、刊行(月)順です。お贈りいただいた方々には(まだ個別にお礼を述べることができていない方もおりますが)感謝申し上げます。ありがとうございました。

五十嵐太郎『建築はいかに社会と回路をつなぐのか』(彩流社、2010年1月)[Amazon.co.jp]

名古屋での音楽学会で五十嵐太郎さん&菅野裕子さんペアに、本当に久しぶりに再会。お二人とも今の私の恩人です。伝説の建築同人誌『エディフィカーレ』に楽譜論を連載させてもらった(大学二年か三年頃)のが、私の最初の(自分の考えていることを他人に伝えるために書いた)「書き物」でした。五十嵐さんは修士論文のテーマが音楽と建築の精神史的比較だったこともあり、完全に畑違いで年齢も随分離れている私をたいそう可愛がってくれました。やはり建築と音楽の比較論をご専門とされていた菅野さんともよくご一緒させていただきました。『インターコミュニケーション』や『建築文化』に載った私の最初期の(修士時代)書き物は、大体、五十嵐さん企画のものですが、それらは修士論文(以後)の方向(音楽とそれ以外の芸術・思想の比較論やパラダイム論といった)を決定づけただけでなく、今に至るまで私の問題関心の根っこになっている気がします。五十嵐さんは(当時からすごかったですが)その後、ベネツィアビエンナーレコミッショナーになられるなど、すっかり雲の上の存在になってしまい、何となく疎遠(年賀状のやりとり程度の関係)になっていましたので、今回再会できて本当に嬉しかったです。
音楽学会でお会いしたときに『建築と音楽』をいただきまして(すでに買ってたので書架には二冊並んでいます)お礼としてヴァーグナー論をお送りしましたら、再度この本をいただいてしまいました。もうこちらにはお送りするものは(抜き刷りぐらいしか)ありません(笑)。精進して、恩返しいたします。五十嵐さんのこれまでのお仕事を概観(自己総括)するような本になっており、日頃のフォローを怠りがちな私のような者にとってはありがたい本でした。

沼口隆・沼野雄司・西村理・松村洋一郎・安田和信共著『楽譜を読む本──感動を生み出す記号たち』(ヤマハミュージックメディア、2010年6月)[Amazon.co.jp]

だいぶ前にいただいたような気がします。私はこの著者の方々の全員を(物まねができる程度に)よく知ってるので、どなたからいただいたかもはや不明です(笑)。音楽出版の世界には「なぜなに本」とか教養本のニーズが一定数あって、私などにはそうしたお話しは回ってきませんが、大抵の音楽学者は(小遣い稼ぎ以上の目的と意義を見出して)それに手を染めています。それらはけっこう売れるそうです。まあいわばこれはそうしたものの楽譜編。「楽譜の歴史」に関する良い本・手頃な本はあまりありませんので、オススメです(大昔からある皆川氏のコレは絶版ですし、しかも図版集に近いものです)。みなさん一級の研究者の方々ばかりで、きちんと文献を読んでいますので、情報の信頼性も高いと思われます。
ただし私としては、皆さん「もっと単著が見てみたい」のですが。いや人のこと言えませんけどね。著者たちの中には、話をしていて分かる限り、すごいことを考えてる・知っている人がいるものですから。というわけで皆さん、2011年のモットーは以下に決定です。《もっと単著を》(ゲーテ)。

田中均『ドイツ・ロマン主義美学──フリードリヒ・シュレーゲルにおける芸術と共同体』(御茶の水書房、2010年10月)[Amazon.co.jp]

田中さんは東大時代の後輩(今となっては同僚みたいなものだが)で、いわゆる「同じ釜の飯を食った」仲間。タイトルについては、諸々事情があったようで、確か本人も苦笑いしていたような。シュレーゲルはやっぱり(メインタイトルにするには)知名度低いのかな。今は現代美術に相当肩入れ&コミットしているようですが、著者の出自は美学(思想)史です。研究対象となる時代・場所・テーマが(研究室の中で)私と一番近かったのは彼だったように記憶します。あと奥さんも私の後輩。
最近そうしたかつての仲間がポツポツと本を出し始めている。コレとかコレもそう。今では居住地も業界(活動の場、所属学会)もバラバラになり、ごくわずかの例外を除けば、お互いに顔を合わせる機会もないのだが、そうした各分野で第一線の活躍をしている人たちがかつて確かに同じゼミにいて隣同士に座っていた、という事実の方が今振り返れば面白い。少なくとも私にとっては、そのことが励みになる。私がいたゼミ(美学芸術学研究室)は専門領域も方法論も本当にバラバラで、とくに学風や(その後の)学閥のようなものも無いと思うのだが、私としては、「同じ釜の飯を食った」仲間がいまそれぞれの持ち場で目立った活躍をしている(今何やってるか不明な人たちもいるけど)ことの方が重要なんですね。だから今さら皆で集まって(昔のよしみで半ば無理矢理)何かをやる、ということがなくても(ない方が)良いのでは、と思ってしまうんですね。研究者にとって理想的な「コミュニティ」とは何なのか、という問題ですね。とにかく(とみに最近)研究者にとっての個人とコミュニティ(世代、組織、伝統、越境など)の問題についてよく考えさせられるんですね。そんな私のためにこそ、シュレーゲルの共同体論について書かれた本書は重要である、という下手なオチで失礼しますね(笑)。

ルイス・ロックウッド著、土田英三郎・藤本一子・沼口隆・堀朋平『ベートーヴェン──音楽と生涯』(春秋社、2010年11月)[Amazon.co.jp]

沼口さん&堀さんの連名で御贈呈いただきました。おかげさまで私の研究室には誰も使わないのに(笑)ベートーヴェン関係の蔵書がどんどん充実していきます。誰も使わない、ということの主意は(私自身が読むのをサボっているという以上に)現状において周囲にそういう学生がいない、ということであり、ベートーヴェンの研究を(サブ)テーマにしようという方が先端研や立命館の中に(あるいは京都近辺に)おられましたら、いつでもどうぞ。ウェルカムです。すぐにでも研究がスタートできます。あとはやる気だけ(笑)。

津上英輔『あじわいの構造』(春秋社、2010年12月)[Amazon.co.jp]

津上さんは美学会の大先輩で、今回あらためて考えてみたら、美学会の中で「感性学」をやっておられる数少ない人のひとりかもしれません。美的カテゴリー論やノスタルジー論をやっていたのは知ってるので、それがまとまった本かなと思ったら、バウムガルテン論、観光論、「ラジオ体操第一」(!)論まで入っていて、とくにそのうちバウムガルテン論は今の私の関心にとってもビンゴでした。ラジオ体操論も昔ちょっとやろうと思って放置していたテーマなので、これを機にあらためて関心を向けてみようかと。よく人と話していて、「もっとも〈機能的〉な音楽の例は?」とか「形式と内実が完全に一致している音楽の例は?」と尋ねられると、私はいつも「それはラジオ体操の音楽です」と答えて、「それはずるい、特殊な例外でしかない」とか返されるのですが(笑)それに対する再反論をそろそろ準備しなくてはなりませんので。

平倉圭ゴダール的方法』(インスクリプト、2010年12月)[Amazon.co.jp]

平倉さんのゴダール論。これほどまでに「待たれた」著作(もとを辿れば「待たれた」博士論文)が(私の周囲で)これまであっただろうか。そういっていいほど、期待を一身に背負っての公刊。まさか送っていただけるとは思っていなかったので、タッチの差で「買い損ね」ました。スミマセン、いただいてしまって。著者によれば「ゴダール剽窃する」、ゴダール映画の思考をなぞるように書かれているこの著作は、いわゆる映画研究(または映画批評でもいいが)というものの目的と方法(技法)を存在論的にヴァージョンアップするのではないか。〈テクストに依らない思考〉をわれわれはどこまで緻密に言葉で記述(またはその思考を〈目撃〉した経験を自覚)できるのか、ということのスリリングな実験にも見えてくる。とにかく、あらゆる意味でカッコイイので、私などは単純に嫉妬するわけです、こんな著者(外見も含め)とこんな本(デザインも含め)に。
閑話休題。今日は妻が台所周りとかを大掃除をするので、子どもがいたら危ないし仕事が進まないから、というきわめてネガティヴな理由で、私が午前から子どもを連れ出しました。ところが問題は行き先と時間のつぶし方。動物園や梅小路公園鉄道博物館みたいのがある)など、まさに子供だましのために存在しているような市の施設はもう休みに入っていてダメ。神社仏閣巡りも寒いし、ちょろちょろしたガキどもを父親が連れて何が悲しゅうて、と思い、パス。で、仕方なしに、商業施設ジプシーになることを決意(発想が貧困で自分でも泣けてくる)。先月くらいにできてまだ行ったことがなかったヨドバシカメラ京都店(四階に入ってるボーネルントが今日の目玉)への初見参もかねて、京都駅周辺でうろうろしました。一人ではたまに商業施設ジプシーをやるが、子連れではほとんど経験ないので、ホントに疲れた。街中で子どもを放置(ある程度、大声出したり走らせたり)できる空間ってホントに少ないんだよね。「休日のショッピングセンター」的な文化に親子ともども縁がないから、ホントこういうとき行動様式のヴァリエーションのなさに困ってしまう。大学がやってたら大学に連れて行ったんだけどね。学食とかお店(生協)とか空きスペースとか芝生とかあるし、どこで何やってようが(歌ったり躍ったり座ったり食べたり走ったりしても)文句言われないし、何でも無料(もしくは格安)だし、基本的に安全だし、ホント大学って「居やすい」ですよね。街の「居にくさ」と比べると、とくに。関係者にはかえって意識化されにくいことかも知れませんが、公共空間としての大学(この場合キャンパスという場所)をもっと前向きに捉え直したら(有効活用したら)いいんじゃないのかな。ただ住んじゃう人とか出てきたら話が変わってくるし、そしたら隠しカメラとかも出てきて、なんだ街中と同じじゃないか、ってなりそう。