ゲームフォーラム終了

土曜日のゲームフォーラム@神戸大学、無事に終了しました。足をお運びいただいた方々、ありがとうございました(思いがけず、社会情報学の田畑さんにも久しぶりでお会いできました)。そして関係者の方々、お疲れさまでした。
本当に楽しかったです。私としては(今やっている学部の授業をのぞけば)あそこまで本格的に(細に入って)ビデオゲームの感性学を論じたのは初めてだったので、終わった後、新たな高みに到達した(こんなの初めてのような、少なくとも前回いつ味わったか記憶にないような)気分になりましたよ。これでしばらく食っていけるな感もあり。まあ、しばらくといっても三日間くらいですけど(笑)。
ディスカッションの時間もじっくり取れたので良かったのではないでしょうか。三人の発表者のバランスも良かったと思います。正統的な現代思想的アプローチによる現代芸術読解(太田さん)、文学理論的・フィクション論的アプローチによるゲーム(スポーツなどを含む「遊び」全般)の分析(河田さん)、そして最近すっかり「ゲーム脳」になってる感性学者による、お楽しみ映像のオンパレード(吉田)。
打ち合わせ段階では隠していた(自分としての)メインテーマを本番でブチ挙げましたが、それは、かりにも「ビデオゲームの感性的論理」を云々するなら、「テトリスの快楽」あるいは「テトリスのリアリティ」を説明できなくては、あるいはしようとしなくてはダメだろう、ということです。もちろんそんなに簡単なテーマではないわけですが、そして私自身が直接それを扱うわけではないですが、最終目標というか夢想すべき着地点として。
1988年に始まった『テトリス』ブームは、おそらくわれわれの「トラウマ」になっていて、92年前後にマスコミを騒がせた「ゲーム脳」の言説もこのブームを直接的に反映しています。周知のように、「ゲーム脳」言説は、今日では「疑似科学」認定されていますが、私はむしろそれを『テトリス』というトラウマとの関係で理解する方が生産的ではないかと思っています(つい一昨日くらいに考えついたことですが)。
ビデオゲームがすでに十分「リアル」な(この場合、representational な意味でのリアルです)領域に到達していた80年代末に、突然ソ連からやってきた、きわめて素朴で抽象的なパズルゲームが西側諸国で大ブレイクしたわけです。そして誰もその流行の理由を、またなぜわれわれがそれに「はまる」のかを(「面白さ」という尺度では計れないと気付きつつ)説明できなかった。端的に「意味」が分からなかった。『テトリス』は、ゲームを作る側、遊ぶ側、評価する側のいずれにとっても、当時最大の謎であったし、また今も謎であり続けているように思われます。ここで言う「トラウマ」とはそういうことです。いずれにせよ、ビデオゲームと「アディクション」の問題を考える上で『テトリス』は外せないでしょう。
昨日のフォーラムで私は、誰かの質問に対し、『テトリス』は「注意(反射)」と「速度(時間)」というクレーリー的問題系で読解されるべき最良のゲームだろう、と思い付きで(それこそ反射的に)答えましたが、ここで一つ付け加えるなら、その『テトリス』がもともとソ連で教育(学)的な目的で開発されたプログラムだった、という事実は(あるいはそれが「神話」だとしても、なおさら)クレーリー的な文脈に照らすなら、ますますもって示唆的でしょう。
終了後は、神戸大の院生を交えて六甲近辺で遅くまで呑んでたので、京都にはJR(終電かその一本前)で帰ってきました。私はいつも大阪神戸方面に行くときは阪急オンリーなので、JRを使って帰ってきたことは京都に住んで初めてでした。京都駅からは徒歩で帰宅したのですが、途中大宮近辺でオバナ君としっぽりと(諸々のグチを肴に)呑み直し、家に辿り着いたのは朝四時前。
そんなこんなで、一年に数回あるかないかの開放感も味わったことだし、明日から気分を一新して、しばらく脇にのけていた諸事(山積)にあたります。
(そういえば同じく土曜日に、本郷の美学芸術学研究室の「同窓会」なるもの(初めての試み)があり、私は欠席せざるを得なかったわけですが、そっちはそっちで盛り上がったのでしょうか? あと表象文化論学会の研究発表集会(駒場)も同日でしたよね。この季節は週末の奪い合いなので、そんなのばっかりですが。)