御贈呈多謝

落手した御著書を少し前から遡って一気にご紹介。御贈呈いただきました皆様、誠にありがとうございました。
届いた封筒に「○○新書」と書かれているのを見て、ははーん、さてはこれはアレだな、と思って封筒を開けたら、アレではなくコレでした。そういうことってありませんか? 私の場合、そういうときは、アレの著者にもコレの著者にも同じくらい申し訳なく思い、自分の浅ましさが恥ずかしくなり、アレは自分で買わせていただきますから、とこっそり心に誓うのでありました。そしたら数日後にアレが届いた、というのが今回の次第。アレとコレがドレかはナイショ。開封時にどれだけ心を純粋(タブラ・ラサ)に保つかが、今後の課題。

渡辺裕『考える耳[再論] 音楽は社会を映す』春秋社、2010年7月.[Amazon.co.jp]
渡辺裕『歌う国民』中公新書、2010年9月.[Amazon.co.jp]

私のもっとも狭い意味での「師」による新著二冊。
前者はご存じ『毎日新聞』の連載がまとまったもので、連載中に私のオリンピック芸術競技論に関する言及をしていただき(2008年7月17日夕刊)、そんな御縁から単行本化の際には写真資料を数点提供いたしました。演奏会評とかCD評とかではないかたちで「音楽」に関するこの手の連載はキツイだろうなあ、と思って端から眺めておりましたが、月一回で何と六年間続けたとのこと。一回一回は短く、ときに(著者自身も認めるように)消化不良ですが、結果的には、「音楽」をめぐる今日的な問題系を余すところ無く「分節化」する、という比類無き仕事になったのではないでしょうか。著者がまだ「唾を付けた」だけのテーマも多く含まれますから、それを掘り下げるべく、論文のテーマ探し(教員・学生を問わず)や授業のネタ探しにも最適かと。
後者は「歌(う)」というキーワードを縦糸にして近代日本史を織り直したもの。国民音楽(音楽取調係)・唱歌・労働歌といったメインな(つまりイデオロギー的に位置付けやすい)系譜に加えて、校歌・寮歌・県民歌などこれまであまり論じられてこなかった(どちらかといえば「下から」の)ジャンルを掘り起こしているのが特徴。

佐々木健一『日本的感性──触覚とずらしの構造』中公新書、2010年9月.[Amazon.co.jp]

私はこの先生がいるから駒場から本郷に移った、という位置づけの本郷時代の恩師。中公新書あたり(の比較的「重め」の新書)でこのタイトルだと過分に「本質主義」的な印象を受けるが(と思うのは私だけ?)そうではなく、和歌を中心的題材にして感性の一般構造を考えようという主旨のものであり、「日本の」という限定付きの話を大上段からするわけではない。「あとがき」から察するにタイトルはむしろ出版社側の都合でこうなったのだろう。ただし私には、和歌を論じる際に感性(美学的な意味での)や触覚を切り口とする著者の議論が、その筋の専門家にはどう評価されるのか、あるいは一般にはどう読まれるのか、ということは不明だし疑問。ある意味で「他人の畑」で「ツールとしての美学」の切れ味を試す/が試される作業として、私のゲーム論などとも共通する、などと言えばおこがましいが。いずれにせよ、どうやっても追い着けない先達一人ここにあり。

沼口隆解説、ミニチュア・スコア『ベートーヴェン交響曲第7番』、イ長調作品92、音楽之友社、2010年10月.[Amazon.co.jp]

国立音大の沼口さんから。封筒に「ミニチュア・スコア見本在中」と書いてあり、オレそんな仕事した憶えないし、何だろうと、開けるまで見当付かなかった。
沼口さんは《ミサ・ソレムニス》についての博士論文を留学先のドイツで書いてきてドイツ語で出版(この本)もされている方で、私の同世代の中では稀少なオーセンティックな音楽学者。ここで言うオーセンティックとは、第一義的には、作曲家の自筆譜や自筆草稿など原典資料にアクセスしている(できる)という意味。そのためには(ベートーヴェンの場合なら)彼の筆跡、彼の楽譜の書き方のクセ、当時のドイツ語とドイツ文化、当時の一般的な音楽様式といった諸々をあまねく理解していなくてはならないので(人ごとながら)大変なのですよ。で、そういう方が、きちんとした作曲家研究と作品研究をものしてくれて、文字どおり「オーセンティックな」楽譜を編纂してくれるので、その他諸々の末端にいる研究者や演奏家は助かるわけですよ。原典資料にアクセスする手間が省けて、ありがたやと。いや、いくら頑張っても、普通の人にはできない仕事ですから。
で、業界外の方から見たら意外かも知れませんが、こういうオーセンティックな音楽学者は実のところ日本では(世界でも)ごくわずかです。私の見るところでは、音楽大学芸術大学)や音楽学会などに所属していても、大半の人間は(1)現代モノに逃げる、(2)ポピュラー音楽(かつてなら民族音楽)に逃げる、(3)「ニュー・ミュジコロジー」(音楽学ポスコロ・カルスタであるところの)に逃げる、(4)「日本における○○の受容研究」に逃げる、のどれかです(笑)。これから音楽(芸術)大学や音楽学会が育てるべきは、あるいはわれわれが真に大事にすべきは、(1)から(4)のどれにもあてはまらない人材ではないでしょうか。
もっともさらに、(5)もっとテキトーかつ確信犯的な山師(ヤクザオンガクガクシャ)で、しかも逃げずに開き直る、というカテゴリーがあり、私など(あとアイツとアイツとアイツあたり)はどうもそこに入っているようですが、それらは最初から大学や学会などの人材育成・教育方針のビジョンから外れているので、無視していただいて結構です。
で、何の話だっけか、そうそう音友版のポケットスコアの解説も、オーセンティックな音楽学者でないと書けないという話です。最初封筒を開けたときは、最新のベートーヴェン全集版(デル・マー版)がポケットスコアになった、それを頂戴した、と錯覚して小躍りしましたが、世の中そんなに甘くなく、(おそらくこれまでの音友版と同じく)二十世紀前半のエディションの再版でした。今回刷り直すにあたって解説を新しくした、ということでしょう(どっちが卵か鶏かは不明)。多分DTPにしたということでしょうか、とても見やすくなっています。不肖ワタクシ、第七番のスコアは持っていなかったので、その意味でもありがたく蔵書に加えさせていただきます。

ジェフリー・バッチェン著、前川修/佐藤守弘/岩城覚久訳『写真のアルケオロジー青弓社、2010年10月.[Amazon.co.jp]

訳者の方々and/or編集者の方から頂きました。訳者のお三方には、京都に来てから公私ともに(あるいは変換候補によれば「講師ともに」)たいへんお世話になっております。何度呑んだか憶えていないほどです。前川さんのブログ「はてなStereo Diary」、佐藤さんのブログ「洛中蒼猴軒日録」、そして拙ブログが「関西(若手?)美学・表象系三大ブロク」だと誰かが言っているのを小耳に挟んだことがあるのを今思い出しましたが、末席に並べて頂きたいへん光栄でございます。というか、お二人のブログともたいへんマジメというか職業意識に忠実で、私のようなテキトーなものと比べられても迷惑かと存じますが。
そのお二人の招きで、今年の春にバッチェンが来日し、京都でセミナーもやりました。私も、うちの院生の写真研究者と連れ立って、見に行きました。
バッチェンは理論や批評というより、まずもって「歴史」(写真史、写真論史)の人で、この辺のスタンスがどう評価されるかは門外漢の私には分かりませんが、そのためにこそデリダフーコーが参照されているわけです。この本もむしろ「歴史とは何か」という大きな問いを、写真という技術/メディアを手がかりに再変奏したもの、とも言えます。というのも(その誕生以来このかた)写真はもっぱら「歴史を作るもの」であったと同時に、言うまでもなく写真自体が「歴史」を持っており、しかも「写真の歴史」とはきわめて重層的だからです。重層的というのは、観られる時点、現像の時点、シャッターを押す時点、着想の時点と、たえずその「起源」がずらされていく、という意味です。これは単に時間を「遡っていく」ということではなく、「〈この写真〉の起源」を問う&定めることがしばしば不可能&無意味だったりするわけで、その意味で、〈歴史〉をめぐる今日的な問題(系)がそこにくっきりと露出します。
もっともこれは彼のレクチャーを聞いた印象であり、必ずしもこの本の内容とは一致しない(かも知れない)ので、これから読みながら再度考えてみます。対象も方法論も問題系も議論のタイプも、私が日頃まったく接することがない種類のものだけに、「頭の体操」的な読書ができそうで楽しみ。できれば変な欲を出さずに(つまりメモとか取らずに)一気に読みたい。