ビデオゲーム座談会のことなど
ビデオゲーム座談会、無事終了しました。
「ファミコン前夜」のナムコや任天堂の歴史(福祉事業や「デパートの屋上」文化などを含む)、ビデオゲームの普遍性とローカライズの葛藤の問題(その場合、映画などのアートとどう違うか)、飽き(慣れ)と身体的困難さ(難易度)を開発の場でどうコントロールするか(あえてしないか)、ビデオゲームを用いたリハビリテーションの歴史と現状と課題、企業文化論からみたビデオゲーム業界の現状と今後(日本的企業風土とアメリカ的それとの比較を含めた)といった話題がてんこ盛りですので、歴史的・思想的なことにも関心があるゲームファンは必読です。掲載されるのは多少「お堅い」学術雑誌ですが。
なにより私は、座談会の司会なるものを生まれて初めて経験したので、たいへん疲れました。事前の準備がまずたいへん(参加者の関連業績に一応すべて目を通すわけだし)なのと、本番での仕切りとタイムキーピングがこれまたたいへん。気もけっこう使います。
座談会は公開にしましたが、あくまで雑誌用の収録がメインなので、あえて積極的には告知しなかったため、オーディエンスはごく内輪。よってここでも事後報告でご容赦。来たかった人がいましたらゴメンなさい。本が出たら読んでください。あと(ありがちですが)またこのメンバーで何かやろう、ということになりましたので、次に何かやるときには、別のかたちで、きちんと公開にします。
(肝心の)メンバーの顔ぶれや掲載誌名ですが、然るべき時が来たらまたあらためてご案内します。
というのも、私のような大学人は(責任も影響力もたいして無いので)個人名でどんどん言いたいことが言えちゃいますが、企業の方々はそういうわけにもいかず、とくにゲーム業界はちょっとした情報で大きなお金が動くだけに、なかなかややこしいのです(技術者がへたに「実名」で「顔出し」したら、すぐに「引き抜き」にあう世界だし)。座談会の内容に、場合によっては「親会社」のオーソライズも必要と。むろん、私がやる以上、あくまでも「学術利用目的」として、こちら側(大学というか学問というか)の論理で押せるところは押させてもらいますが。発言内容(言説)の主体(性)をめぐる問題(大学と企業の違い)は、産学協同の一つの壁ですね。今回そんなことも思ったり。
いずれにせよ、そういうわけで、いつも以上に(というか、いつもとは違い、珍しく)慎重に進めているのですが、とりあえずそうした現状報告はここで公にしておいていいかなと。なお私は、Twitterとか始めると、この辺りのことをつい「うっかり」しそうで、怖い&危ないんですよね。だから現状ではブログが精一杯ですね(と軽く言い訳)。
あと、ビデオゲーム研究については、3DやVR(ヴァーチャル・リアリティ)をテーマとした理工学と医学の研究者が立ち上げる、かなり(金額が)でかいプロジェクトの末席に、感性学の立場から私が名を連ねることになりました(つか、今って本当に「猫も杓子も3D」なんですね)。月末に隣県の某医科大学に打ち合わせに行ってきます。本格的に動き出したら、ここでも色々とご報告(というか、協力を要請)したいと思います。この案件では、学際研究の壁にぶち当たりそうな予感が。何しろ、他の皆さんは大規模な研究室を「運営」(多くの学生、スタッフ、秘書を抱え込んで)されているわけですが、それに対して、ほとんど「一人」で研究を行っている人文系研究者がどうやって太刀打ちできるのかと。「大規模な予算をトップダウン的に消化して、代わりに、研究成果をボトムアップ式に吸い上げていくシステム」としての「研究室」ではないのですよ、われわれの「研究室」概念は。と、想像するだけで空恐ろしいですが、まあ、いつものように失うものは何も無いので当たって砕けろと。
ついでに、二点ほど出版情報をば。どちらも昨年末に書いたものが半年遅れでやっと出た感じなので、心情的には少し「距離」がありますが。そういうこと言ってちゃダメですね。「出しっぱなし」ではいけません、続けないと(とくに二番目のものは)。
吉田寛・篠木涼・櫻井悟史編『アフター・メタヒストリー──ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義』、立命館大学生存学研究センター、2010年7月5日.
昨年行ったホワイト・セミナーの報告書を含む論集。私が書いたものとしては「ヘイドン・ホワイトといまどのように対峙するか」という序文的テキストと「After Metahistory: For Welcoming and Thinking with Professor Hayden White」という当日の Opening Address が載ってます(当初はちゃんとした論文を(も)載せようと思っていたのだが時間切れで断念)。あとホワイトの「ポストモダニズムと歴史叙述(Postmodernism and Historiography)」という文章(講演原稿)の翻訳を私がしています(学生達の研究会との共訳)。手前味噌ですが、後者はホワイトの最新の思想を知る上で重要なテキストだと思います。あとホワイトの(ほぼ)完全な文献リスト(著書、論文、事典項目、レビュー、インタビュー、日本語訳文献、ホワイトについての文献を網羅)が収録されています。これも案外貴重かも。いずれにせよホワイト(周辺)に関心がある人にとっては必読かと。
図書館にはそのうち普通に入りますが、書店には並ばない本なので、入手を希望される方は吉田に一声かけてもらうか、または公式の窓口としては立命館大学生存学センターまでお問い合せを。
考えてみたら、立命館の名が入った著作物に、私の名前が(奉職三年目にして)初めて載るんじゃないかな。いい記念になりますね(笑)。
吉田寛「聴覚の座をめぐる近代哲学の伝統──ヘルダー、カント、ヘーゲルの場合」、美学会編『美学』第61巻1号(236号)、2010年夏(6月30日発行)、pp. 25-36.
ちょっと訳あって、おそらく誰よりも早く(?)昨日、落手しました。本誌はこの号から版型が変更になっていますが、実はこのフォーマット(B5というサイズ、縦書き、後註、右開き、フォントの種類と大きさ)は私が編集幹事時代に、デザイン会社から色んなサンプルを出してもらって、委員会に諮って決定したものなのですよ。そんな感慨も少々。
この論文はそのうち電子テキスト(PDF)化されて無料で読めるようになると思いますが、数年後だと思うので、ご入り用という(奇特な)方がおられましたら、抜き刷りを差し上げますので吉田まで。自分としては今後の方向性を決めることになるだろう(そうだと良いなと思ってる)新境地の論文。
耳という感官(聴くこと)こそが「視覚の時代」たる近代を背後から駆り立ててきたものであり、そのために「近代」は「耳」を抑圧・隠蔽せざるを得なかった、従って「ポストモダン的聴覚論」はその辺の歴史認識に欠くからすべて無視してよい、という多少デカい話。よく査読通ったよね。通した方の勇気と見識に拍手。もっとも、(不合理に)リジェクトされたら、この学会辞めて、同内容の論文を別の学会誌に出そうと思ってたんだけどね(笑)。まあ多少ともチャレンジングな論文を投稿するときには、誰でもそうした気構えだろうけど。
[2010.7.18追記]
ホワイト本の詳細な内容は、以下に掲載されている目次を参照して下さい。
http://www.arsvi.com/b2010/1007yh.htm