日本ワーグナー協会第117回関西例会(2月7日)

日本ワーグナー協会第117回関西例会
日時:2月7日(日) 14:00-17:00
場所:北浜ビジネス会館4階中会議室(北浜駅徒歩4分、淀屋橋駅徒歩5分)[地図][Google Map
テーマ:「ワーグナーの「チューリヒ的転回」──『未来の芸術作品』と『オペラとドラマ』の断絶を考える」
講師:吉田寛立命館大学先端総合学術研究科)
ワーグナー協会のサイトもご参照下さい。)

講演依頼を受けました。私、会員ではありませんし、例会も行ったこと無いんですが(機関誌に論文を書いたことはあります。たしかありえないくらい高額の原稿料を頂戴して驚いた記憶が)。うちの仏様の名を冠する本を出したんだから、ちゃんと本山に挨拶に来て落とし前を付けなさいよ(超意訳)というたいへんありがたいお話し。なんか最近そんなのばっかりな気も。ある意味、一番「恐れていた」読者達であることは確か。学会とは違い、こうした協会は一般に愛好家集団の色が濃いので、「ごまかし」が効かないんですよね。
で、この本に書いたことの中から、これまで誰も指摘してこなかった(ということを出版後に指摘されて気付いた)チューリヒ時代のヴァーグナーにみられる一つの Kehre に絞って話をします。それはすなわち、『未来の芸術作品』(1849年末出版)と『オペラとドラマ』(1851年11月出版)とのあいだに見られる断絶、具体的には、革命的コスモポリタズムからドイツ主義への決定的転向です。本の中で私は、この転向は(1)フランス(革命)への再度の失望、(2)「革命思想」の放棄、(3)ドイツ・ナショナリズム全体の同時代的変質(フランス革命的=啓蒙主義的な民衆・大衆としての Nation から、排外的な国民としての Nation への変化)という三点から説明できる、という仮説を出しました。今回の発表でも基本的にはそれを踏襲しますが、せっかくやらせていただく以上は新しい観点を加えないと申し訳ないですし、私もやる意味がなくてつまらないので、この転向がチューリヒで起こった、という事実に目を向けたいと思います。
すなわち「チューリヒ的転回」という題名には、単にその転向がチューリヒ滞在時に起こったということをこえて、それを当時のチューリヒという場所に特有のものとして考えてみよう、という二重の意味があります。
当時のチューリヒはドイツ(のみならずヨーロッパ)中から亡命してきた革命家が集まっていた街で、彼らのうちの多くがその後アメリカに渡ります。いわゆる「1848年人 Forty-Eighters」というやつです(Forty-Niners はその翌年にゴールドラッシュにわいた人達なのでお間違えなく)。三月革命の理想をアメリカに持ち込んだ彼らは、南北戦争に加わり、北軍を勝利に導きます。やや大袈裟にいえば、政治家/軍人/実業家/芸術家として近代アメリカの基礎をつくったのが彼ら Forty-Eighters(三月革命後にアメリカに渡ったドイツ人)であるとも言えます。ですが、チューリヒ時代のヴァーグナーは、周囲のドイツ人革命家がアメリカに渡るのを横目にしつつ、自分はそこを動きませんでした。それがどういう決断だったのか、それを先述した転向の重要な背景・コンテクストとして考えたらどうか、というのが主旨です。
ところで、本でも書いたように、後にヴァーグナーアメリカをさかんに「理想郷」視するわけですが、その大きな鍵がこのチューリヒ時代にあった(ある)ような気がします。自分もあの時一緒にアメリカに行っていけば良かった、という後悔すらあったのかも知れません。つまり、バイロイト時代のヴァーグナーが「アメリカのドイツ系住民の方が、ドイツの貴族や官僚より、私の音楽をはるかによく理解してくれるだろう」と言うとき、チューリヒ時代の仲間のことが念頭に置かれていたに違いありません。これは疑いないことのように思えますが、今回「1848年人」のことを調べていて初めて気付いたことなので、あの本には書いていません(そのうち『ヴァーグナーの「アメリカ」』(笑)という本でも書いて、そこで言おうかなと思ってます)。
そんなわけで今、「1848年人の人名辞典」なるものを端から読んでいるのですが、すべての情報・人名が新鮮(結局「ドイツ人」としても「アメリカ人」としても無名な人達ばかりなんですよね)、しかしこれまでの自分の知識とどこかでリンクしている、という稀有な悦びを味わっています。例えば(これはだいぶメジャーな部類に属すると思いますが)先に書いた「チューリヒ時代にヴァーグナーの周囲にいたドイツ人革命家」の一人に、ペーター・ベルンハルト・ヴィルヘルム・ハイネという(ドレスデン革命をヴァーグナーと共にした)人物がいるのですが、この人、アメリカに渡った後、ペリーと一緒に日本にも行ってるんですよね(1853年)。後の日米和親条約締結時にも、ハイネはペリーに同行して来日しています(1854年)。しかも彼、画家として船に乗っていたので、浦賀や横浜の絵とか描いてるんですよ。ドレスデン劇場でヴァーグナーの書割を描いていた三月革命人が、ですよ(ちなみに、ハイネは逃避行中のバクーニンと横浜で出会っている、というよく分からないけどとにかくすごいエピソードもあります)。ってことは、下手したら『ヴァーグナーの「日本」』という本も、そのうち誰かが書けますよね。なんつって。
そんなことを(も)当日は話そうかなと思っています。とにかく研究の広がり方って本当に面白いなあ、ファンタスティックだなあと、あらためて実感した次第。
例会の雰囲気が分からない上に、まだお目にかかったことのないドイツ文学・哲学の某泰斗(アドルノ研究の領域でも長老格)も来られるとのことで緊張してます。参加をご希望される方がおられましたら、主催者側に聞いてみますので(おそらく会員以外でもオッケーだと予想されます)吉田までメールでも下さい。あと行商人よろしく自分の本を担いで行って営業(即売会)もします。
2月は大学の仕事もけっこうハードなので(この業界は皆さんそうでしょうが)2010年最初の山場到来、という感じですね。