相変わらず効率悪いが…

明日の「ワーグナー協会」の発表準備とレジュメ作成、やっと今日の夕方、ぎりぎりで終わった。
この一週間は割とスケジュールが空いてたので全然余裕だと思ってたのだが、あに図らんや、見込みよりも二日くらいオーバーして、結局ぎりぎり。
その理由は、やってる途中からはっきりしていて、ヴァーグナーの手紙を(ある時期に限定してだが)網羅的に読んで、訳してたから。
これがたいそう時間がかかった。一頁を読んで必要な部分を訳出するのに一時間とか二時間とかざら。その文の全部の単語の意味を辞書で(再)確認しても、なおかつ文意が浮かんでこない、ということもしばしば。もう笑っちゃうくらい。ヴァーグナーの手紙を一つ読解する時間で、日本語の薄っぺらい本を確実に一冊(フルに吟味しながら)読めるね。それくらい効率が悪い。
これ、ヴァーグナー(あるいはドイツ語)だからではなくてある程度一般的な話だと思うんだけど(日本語の場合でもそうだろう)手紙の読みにくさというのは、理論書の読みにくさとは別。出版物と違って、多分あまり推敲したり下書き・清書したりしないからだろうけど、ヴァーグナーの場合も、通常ならくっつかないレベルの構文・品詞が並んでいたり、その文を書き始めたときに、その文の閉じ方をあまり考えていなかったような形跡も散見。考えつつ同時に手を動かしてるから、途中でどうころんでもいいように、つねに可能性を開く形で構文を作っているんだよね、きっと。他にも幾つかうまく説明できないけど読み慣れていくとこちらが直観的に把握できるクセや法則みたいのがあって、今回もコツを掴むと一気に進むようになったんだけどね。まあ、その言語の運用や可変性を本質から理解するには手紙を読むのは良いと思うよ(と、せっかくなので高みに立ったつもりで言ってみる)。
おまけにヴァーグナーは、ある一時期に「小文字書き(Kleinschreibung)」というのをやっていたのだが、今回私が読んだ手紙がちょうどこの時期のものばかり。通常ドイツ語は名詞の頭は大文字で書くんだけど、あえて(英語のように)固有名詞以外の名詞はすべて小文字ではじめる。それが「小文字書き」なのだが、とにかく普通のドイツ語の文章と違って、どれが名詞だかパッと見で分からないから(まあまさにそうした効果を狙った文章手法なわけだが)読みにくくてしょうがない。ちなみにヴァーグナーの小文字書きには、それを使ってヴァーグナーの草稿の年代を特定できるという、研究者にとってのオマケがあるのだが、そんなオマケよりも読みにくい方が困るわ。
(と、ここで逆に、そういえばドイツ語の「大文字書き(Großschreibung)」っていつからの伝統なんだろう? ルターもすでに大文字書きだったしな? と思ってwikiで調べてみたら、14世紀からだそうです。)
よく考えてみたら、私がある人物の手紙をいちから読んで研究する(した)のはヴァーグナーくらい。修論以来の私のもう一本の柱であるハンスリックは、手紙の類がほとんどないからな。後は大抵、他人が上手にまとめてくれたものや翻訳書などを手がかりに、効率よく一次文献にアクセスして、おいしいところだけもっていくような研究しかしていませんからね(オイオイ自分で言うなと)。
で、何より効率悪いのは、私が最近あまり日常的にドイツ語(全般)を読んでいないからだ。こっちが毎日ドイツ語に接するような仕事だったら手紙だろうがスラスラいくんだろうが、生憎最近の私は、たまに(必要が生じて)集中的に読むだけなので、なかなか勘が取り戻せないし、ようやく勘が戻ってわりかしスムースに読めるようになった頃には(今回もそうだけど)その仕事は一旦終了で、ドイツ語さん、じゃあまたね、auf Wiederlesen、と。今回もようやくヴァーグナーの手紙の文体に慣れてきて、最初(数日前)の三倍くらいのスピードで読んで訳せるようになったんだけど、次やるときにはまた最初に戻ってること必至。まさに効率悪いとはこのこと。歳のせいもあるけど(最近、辞書引いてもその後の記憶に残らない…)。
で、まあ今回、そうやって「効率悪いなー」といらつきながら、だがそこで自分が勝手に前提にしていらついている「効率」とは何だろうかとも考えたわけだ。逆に言えば、「君(=私)効率悪いとか言って実は楽しんでるくせに?」と。いやもっと言えば「効率が悪いからこそ、これが楽しいんだろ?」と。「君、これまでも実は(人からは効率の良い人間とわりと誤解されるが)効率の悪いことばかりやってきたよね?」と。すべてイエスである。
確かに私、この手の「効率の悪い」作業、嫌いではないのだ。むしろ好きなのだ。今回も、ヴァーグナーの手紙に手間取りながら、こうやってる時間であれやこれができるはずと(正確には、こんなことしてる場合でなく、締切を過ぎて人に迷惑をかけているあれやこれをすべきだろうと)嘆きつつ、オレってホント暇だよなあ、相変わらずこういうの好きだよなあ、超スローにしか理解できないからこそ、分かった瞬間は一気に全部がバババとつながって、その快楽がものすごいんだよなあ、効率と秤にかけても(発表準備という目的を脇においても)これって私の人生にとって至極の時間だよなあ、と結局楽しんでいたわけだ(そもそもつまらないことは自分からはやらないわけだし)。今までお誘いを断ってもっとも後悔している研究会が、デカルトラテン語著作の読書会(成城の某先生主催)であったりする私だ(人生最悪の忙しさの助手時代で本当に無理だったのだ…)。もちろん一方で、効率的に読んだり書いたりしていくのも十分に楽しいし好きだから(一週間で一気に論文を一本書き上げたときの快楽も相当なものだ)軽いダブルバインド状態に陥ったわけである。
他方、最近の私は(学生と話す場面などで)人の研究(仕事)に関しては効率のことばっかり言っている気がする(「かたちにできるところからどんどんやりなさい」とか)。自分は確実に楽しんでいるくせに、この種の「効率の悪さ」を、あまり上手に「布教」できていない気がする。効率性は尺度も明快だし、言いやすいんだよね。最近の大学における業績主義(publish or perish)もそれに沿ってるし。まあ逆にいえば、効率については誰でも同じように同じことが言えるわけだから、実は何も意味のないこと、何の思考も含まれていないことを言っているにすぎない、とも言える。気をつけなきゃな、と。効率性の悪さこそが「教養」なのですとか、最近流行の「スローなんとか」とか、安易に翻訳しちゃわずに、この手の効率の悪さについて、もっと正面から(それこそ効率悪く)考えなくちゃいかんな、と。単に効率が悪いことと、それを通じてしか得られないものがある効率の悪さとは、違う気もするが(というかそこを分けないと社会的にヤバイ気がする)、それらは本当に(どこから/どこまで)違うのか、ということなども含めて。
とりあえず明日(もう今日だわ)は大阪での発表の後、立場上、飲み会まで付き合わなくちゃならんと思うので、帰りはきっと阪急の終電近くの各駅停車、それに加えて、河原町終点まで寝過ごす可能性大ありなので、きわめて効率の良さげな一日になりそうです。