感染の幻想/幻想の感染

・初期において少数の感染者は、彼(女)らが感染源(ルーツ)ではないと皆分かっていながらも、あたかもそれを隔離しないと皆とりあえず不安で仕方が無いから我慢してくれと言わんばかりに、厳正に隔離される。
・でも感染者の隔離は真の感染対策にはならない(と皆分かった上でのプレイである)ので、原理的にも物理的にも、感染は防げず、感染者は増殖する。←今ここ!
・感染者が次第に増えてくると今度は、彼(女)らは「免疫抵抗力を持つ者」として(質的観点でも量的観点でも)新たに格上げされる。しかも毒性が強ければ強いほど、それを通過した者への憧れはいっそう強くなる。すると(既)感染者は、いつの間にか強者の側に回り、今度は、未感染者が弱者となる。
・やがて感染がワクチンというかたちで合理的に「圧縮」され、人間の手の内に入ると、未感染者はそのワクチンを打つべき弱い存在、その意味で隔離すべき対象へと変わる。
・それでもなお未知の新しい細菌の感染者が出現し、振り出しに戻る。
大事な認識は、以上のサイクルが、文字通りの細菌だけでなく、噂/偏見/主義主張/イデオロギーの「感染」にも共通するということである。
ここまで自然や他の生物を蹂躙する無敵の存在になった人間が、最期は、皮肉にも目に見えない細菌によって滅ぼされる、というのは昔からありがちな未来予想図だが、実際には細菌そのものによって身体的に滅ぼされるのではなく、あるいはその手前で、感染の幻想(あるいは幻想の感染)によって精神的に自滅するに違いない、ということが今回(初めてではないにせよ、よりいっそう)明らかになった気がする。
明日もうちの大学は教職員は仕事があるそうなので、渦中の感染源から出勤します。あぁ会議も休みにならないかな。
それと今は自転車通勤なので関係ないけど、東京の満員電車とかこういう時どういう空気なんだろうか…。想像しただけで「感染」しちゃいそうで、ヤダヤダ。もちろんウイルスよりも幻想に、です。
[追記(2009.5.23)]
そして今回は、マスクという「小道具」がまた良く効いている。
ポイントはもちろん、今回のような場合、マスクの効果・機能がもっぱら「(自分が)うつらない」ではなく「(他人に)うつさない」ことにある(にしかない)という点だ。
いわゆる自己防衛型のセキュリティ社会は綻びをみせ、再びモラルが、しかもヒステリックに強制されるものとして、希求されるようになる。そこらで売ってるマスクなどゲームに参入するための形式的アイテムにすぎないと皆承知しつつ…
神はわれわれ現代の日本人にマスクという名の「試練」を与え賜うたのだ…