佐藤真さんのこと

昨日の夕刊に京都市動物園の観覧車の話(木下先生の執筆)が載っていて、今度乗りに行ってみようかという話になり、娘がその記事と写真と地図をめきめき腕前上達中の鋏で切ってみたいというから許可して、切り取った後に、ふとその下から表れた記事をみて、驚いた。
「佐藤真のドキュメンタリーDVDボックス」とあり、ふうんそんなのが出るのかと思ったら、何と以下「07年に亡くなった…」と書いてあるではないか。
慌ててネットで調べたら、昨年の九月に高島平の団地から飛び降り自殺したらしい。
妻は「そういえば新聞で見たわよ。知ってる人だったのね」と言っていたが、その時期、彼女は出産準備で実家に帰っており、私は一人暮らしをしており、新聞を取っていなかったのだ。私は一人でいると新聞はおろかテレビも見ないので、すっかり世の中から遮断されてしまうのだが、そのせいで今頃になって訃報を知った、何という無知で怠慢なのか。
佐藤さんは、私が学部(駒場表象文化論)の確か三年の時に講師としていらしており(蓮實さんつながりだったのだろうか)実際に映画を撮ってみるという実習的授業が初めて登場したことに、他学部や学外の人達も一緒になって参加して、随分興奮した記憶がある。私が参加したのは最初の一年だけだが、その後ちょっとした伝統となり「佐藤ゼミ」なる名称ができたともどこかで聞いたような。
映画撮影に使う録音機材(ナグラ)の扱い方も佐藤さんから初めて教わり、その斬新な聴経験(録音されている音とモニター上で聞こえる音にわずかな時差が生じる)からデリダの本で読んでいた「話すことを=自ら聞く」ことの意味が身体で理解できたことについては、何回か書いたり喋ったりしてきた。
あの当時佐藤さんは『阿賀に生きる』を撮って山形の映画祭でドキュメンタリー賞を取ったばかりのキャリアで、今調べたところによれば1957年生まれとのことなので、37歳とかそこらだったはず。よく駒場下の定食屋でご飯やお酒をおごってもらったが、今日はこれから娘を幼稚園に迎えに行くので帰らなくちゃ、と仰ることもよくあったのを思い出し、今、私がまさにその世代になっているなあとしみじみと感じる。ふだんは大人しいというか説教臭くないというかほんわりしているというか、とにかく映画監督の通俗的イメージから悉くズレている方で、それがわれわれ学生にとっては、逆にリアルな職業人の姿を提示していた。少なくとも酒を飲みつつアートが云々とか言ってる奴は多分ダメなんだろう、ということがよく分かった。
自分の妻の出産光景を「真正面」から据置で撮影した無修正の映像を授業で学生に見せたことがあった。それは当時の私などは耐えきれずたまに眼を逸らしてしまうような代物であったが、映像=真実のためならそこまでヤルか、私には無理だな、それにしても奥さんもよく許したものだな、とドキュメンタリー作家の性というか本能を垣間見た気がした。それはもうフィクションとしか言いようがない、そう自分を騙さないと見ていられない、現実であった。その意味で、彼のドキュメンタリー作家としての手法は全部あの出産のフィルムに出ていたといえる。私にとって、「出産」という言葉に付随する視覚的イメージは、わが子の出産に二度立ち会った今でもなお、あの佐藤さんの映像なのだ。そしてあれを「見せられた」(とあえて言う)人達は、私以外でも、きっと同様だと思う。
その後、ドキュメンタリーについての本を出されたり、新聞で何度かお名前やお顔も拝見し、ご活躍なのは知っていたが(サイードの Out of Place によって特に知名度が上がったのだと思う)今日久しぶりに名前を見たと思ったら、すでに過去の人であった。亡くなった当時のネット上の記事には京都造形芸術大教授とあるが、そのことは知らなかった。
それにしても、子供に京都の観覧車の写真を切り取らせた、その下からちょうどその記事が出てくるとは。文字通り、現在の私の「後景」あるいは「地」をなしている一人なのだとあらためて強く感じた。
いつの日か恩返しをしたいと思っている人をまた一人、失ってしまった。
遅くなりましたが、心よりご冥福をお祈りいたします。