閉塞する人文科学を超えていま、芸術を問う?

「私はいま蔵書の荷解きをするところです。そうなのです。私の蔵書は、つまり、まだ書棚に並んではいません。それらの書物は、秩序というものに付き物のあのかすかな倦怠には、まだ包まれていないのです。」(ベンヤミン「蔵書の荷解きをする」、1931年)
ようやく京都の自宅の自室に本棚が入ったので、ダンボールを開けて本や書類を並べ始めたところ。まさに今、私も同じような心境。いかにして自分の書物達に新たな秩序を与えようか、それ自体があたかも知的創造のごとき、ワクワク感。むろん、パリ占領後、ドイツ軍が部屋ごと没収したと言われるベンヤミン先生の蔵書(パリ解放後、ソヴィエト軍が接収し、後に東ドイツに返却されたそうな)には質量共に全然足下にも及ばないが。まあ、この大好きな一節を実体験として引用できる機会も人生の中でそうはないので引用してみる。
さて、これまで自分が書いてきたものや参加した学会の資料を整理していると、「閉塞する人文科学を超えていま、芸術を問う」と書かれたビラが目に留まった。
2005年の表象文化論学会(仮称)設立準備大会のビラだ。そのとき私は「近代の上演」というパネルに招かれて、ヴァーグナーについて喋った。
その大会では、シンポジウムが二つの他、パネルが三つ組まれており、それぞれ(もちろんそう銘打ってはいないが、当初主催者側から聞いた説明によると)哲学思想系、美術批評系、パフォーマンス系のものであった。
なるほどこれらの三つのジャンルは実質的に、現在(2005年時点)の表象文化論研究の三本の柱となっており、若手研究者も含めて大体皆さんそのどれかに分類できる、しかし私は音楽研究をしてるといってもパフォーマンスにはあまり関心ない(実際、他の二人のパネリストは演劇について喋った)、そうかそう考えると私がやってきたような音楽研究はじつは表象文化論の範疇には入れにくいのか(長木さんも駒場ではオペラを中心にやってようだし)、まあしかしOBとして呼ばれたからには責任もあるしヴァーグナーのことでも喋るか、あれは音楽じゃなくて劇(本人曰く)だから一応パフォーマンス系(本人が生きてたら絶対否定)でいけるだろ。と、こんな思考の流れを経て、参加に応じた記憶が、いま甦ってきた。
このとき感じた「居心地の悪さ」の問題は、それからずっと放擲していて、今も自分のなかで解決できてないのだが、今日数年振りにビラを発見して考えたのはそれとは別のこと。
それは、「閉塞する人文科学を超えていま、芸術を問う」っていう意味とそう言いたい気持ちは分かるけど、「閉塞する人文科学を超える」ために、なぜ「いま」「芸術を問う」必要があるのか、という疑問についてはどう答えるのか、それこそ真に問わなくてはいかんだろ、ということ。「人文科学の閉塞感」というのはあらゆる領域の研究者に共有されていると想像するが、「芸術」の研究をすることでそれを打破することができる、という期待や可能性については、どこまで共有されているのだろうか、ということ。もっとシンプルにいうと、芸術(研究)って冷静に考えてそんなに偉いものなの、という疑問。
もし、芸術家や芸術研究者だけがそう信じているとしたら、単なる自己満足やお笑いでしかない。あるいはそこに、かつてのアヴァンギャルド(芸術こそが未来の社会の指針となる…)のノスタルジックかつ時代錯誤な残響があるなら、それはちょっとヤバイことだ。
イーグルトンがたしか『美のイデオロギー』のなかでアドルノを批判する際に言っていたことを思い出す。それは、アドルノは自らの社会的批判を芸術哲学のなかに結晶化させたわけだが、芸術というものを過剰に特権的な存在として(自明視して)扱っているのではないか、そのこと自体の歴史性やイデオロギー性については自ら隠蔽してしまっているのではないか、ということ。確かに、他の20世紀の思想家達に比べてアドルノの受けが一般に(芸術に関心がある一部の人々による礼賛と好対照に)よくないのはその辺に理由がある気もする。しかし、イーグルトンがアドルノに差し向けた批判は、人文科学という枠の中で芸術を研究している、少なくともそのつもりになっている、人々全員に向けられたものであるはずだ。芸術もしくは芸術家という存在を特権化し、それを云々することに大仰な知的・社会的使命を期待するのは、部外者からみれば、単なる「信仰」でしかないだろう(もちろんイーグルトン本人は決して部外者ではないわけだが)。「は、芸術? 単なる趣味です。」とでも答える方が、倫理的にも社会的にも、まだしも善であろう。
表象文化論学会の学会誌である『表象01』(2007年)には、この2005年の設立準備大会時のシンポジウム(岡崎さん、田中さん、中沢さん達)と、翌年の第一回大会時の浅田さんと松浦さんの対談の模様が収録されており、「人文知の現在と未来──越境するヒューマニティーズ」という特集のもとにまとめられている。それを私は何度読み返したことか分からない。現時点でのバイブルの一つになっているくらいだ。これを読むと、表象文化論研究の歴史的由来と現状(批判)、将来の見通しがクリアになり、「閉塞する人文科学を超えていま、芸術を問う」ことの意義が私には十全に理解できる。のだが、ただしこれ、もし芸術なるものにまったく興味関心がない人文科学者が読んだら、どう思うんだろ?とつい考えてしまう。
こういういわば部外者の視点を、私は結構昔から持っていたが、今所属するガチで学際的な学科で仕事をするようになってから、とくに強まった。高齢者医療問題や介護問題、生命倫理の専門家達や、障害の当事者(しかも彼ら彼女らの大半は私以上に人生経験がある社会人である)を前にして、いくら自分がそれを重要だと思っていても、いきなり「おゲイジュツ」の話を切り出すわけにはいかないのだ。むしろ、美学なり表象文化論研究は、第一義的には「おゲイジュツ」の研究ではありませんよ、という前提から出発しなくてはならないのだ。「芸術」はとりわけ押しつけがましい(それにコミットしない人を自然に排除してしまう傾向をもつ)からこそ注意が必要なのだ。
まあよく考えたら、必要ない人には必要ない視点ですよね。
部外者にもそれなりの影響力と有効性を持つような言説を私がきちんと発信できればあまり悩むことはなさそうなんですけどね。
こんな事考えてしまうこと自体、まだまだ修行が足りん証拠。