最も社会的リスクが少ない博士課程教育のあり方を考える

水月昭道高学歴ワーキングプア』以来、あちこちで散々言及されている人文系ノラ博士問題ですが、ここでは個人的動機から、あえて屋上屋を架す真似をします。
第一には、現在の持ち場を離れるにあたって、今考えていることを、身近に「遺言」として残したいのですが、その時間がないこと。
先月から歓送迎会の類をたくさんやって頂いておりまして、すごく嬉しいのですが、そこでは(当然ですけど)中々じっくりお話しする時間が取れません。
でもこれは、実は今の私が、子育ての次ぐらいに真剣に考えている、すごく大事なことなんです。われわれみんなの将来に関わるんです。その意味では、子育ての問題と同じくらいの重要性があります。
第二には、大学の博士課程のあり方については、今後いっそう私の仕事上の関心事になるであろうからです。
自分に関係ないことは考えないし口も出さない、というのが私の基本姿勢でして、本当は考えないほうがすごく楽なのですが、これは、考えないわけにはいかない。もしかしたら一生、関わっていく問題かも知れません。
というわけで、屋上屋を架します。
ただし私は、博士号を取ってまだ数年の駆け出しの研究者ですし、文部行政にも大学運営にも素人ですので、ここで書くことは個人的経験に毛が生えた程度のものです。私個人を知らない人は(もしくは知ってる人でも)あまり読んでも意味がないかもしれませんが悪しからずお許し下さい。また、できるだけ一般的な議論をしたいのですが、おそらく他分野には通用しない議論です。私が属している人文系、いやもっといって文学部系、そのなかでも哲学系、芸術学系の事例でしか(ですら?)ありません。あと、先に書いたように、これは今私が考えている途中のことであって、時間があれば直接色々な人と話したい事柄ですので、異論・反論はむしろ大歓迎です。こういうこと考えている暇があったら研究して業績積みなさい、というのは重々承知なので、一応無しの方向で。
まず当たり前のことの確認ですが、博士号を取るのは非常に大変です。修士論文の延長で考えられがちですし、また皆そう考えざるを得ませんが、まったく違います。一例をあげると、修士論文奨学金なしに書けますが、博士論文は何らかのグラントがないと書けません。また、修士論文は「いきなり」書けますが、博士論文をまとめる上では、それ以前に五本程度の論文執筆・出版が必要です。査読論文が三本ないと有資格者(candidate)になれないという制度を持つ大学院も複数知っています。学会誌に掲載する場合には、相当数の学会に所属して発表していなくてはなりませんし、大学の紀要(学会誌よりワンランク劣る)に書く場合でも、COE研究員やポスドク、非常勤講師などとして複数校と関わりを持っていなくてはなりません。いずれにせよ、けっこう時間がかかることです。
私はダラダラしていたので七年かかりましたが、その反省を踏まえて今もう一度やり直せても、五年はかかると思います。規程年限の三年ではとても無理です。酒とデートを禁止にしても無理です。せめて四年はください。査読論文や紀要論文をあわせて五本書こうと思ったら、それくらいはかかるでしょう。というのも、修士課程の年頃と違って、「それだけ」やっていればいいというわけではなく、他の仕事もたくさんあるからです。私の場合でいえば、非常勤講師の仕事、学会(複数)の幹事や国際大会の運営、博士論文に直接関係しない(と当時は思わなかったのだが)原稿や本の仕事、また極私的には結婚して家庭を持ったことなどで、生活自体がもう手一杯でした。これは極端というか自己責任としても、いずれにせよ、生活の中で研究を持続していく長期戦を覚悟しなくてはなりません。そしてそのためにはグラント(できれば複数)が絶対に必要です。私は時間が作れませんでしたが、留学をする場合にはなおさらです。
また、これも修士論文を書くときには(存在はするが)あまり意識されない要素ですが、博士号取得にあたっては「運」も相当大きな比重を占めます。グラントが取れるかどうかももちろん運ですが、それ以前に、指導教員との関係が「運」によります。進学から五年も時間が経てば、自然、指導教員との関係も変化するでしょうし、指導教員自身が異動になることもあります。アメリカでは教員が大学間を異動すると学生もスライドしてついていく、と聞いたことがありますが、日本の場合、学生は教員ではなくて大学(研究室)に所属するので、教員がどこかに行ってしまうと、博士論文の提出と審査の計画自体が頓挫します。サバティカルや停年退職、さらに極端には、免職や死去などということも考えられます。これは仕方ないです。五年は長いですから。教員も学生も悪くないです。運です。強いていえば、そうした場合に備えての柔軟な体制作りが大学側に求められるでしょうが。また、より依存度は低いとはいえ、指導教員(主査)以外の副査の先生方についても、同じ事がすべてあてはまります。ともあれ、運です。
で、そうまで苦労してようやく博士号を取れたと思ったら、次にやってくるのがノラ博士問題です。やれやれ、です。
ただし、博士号取得の問題と大学への就職の問題とは一旦切り離して考えるべきです。博士号がないとまず就職は無理でしょうが、昨今はあっても難しいことが多いです。必要条件であっても十分条件ではありません。私自身、以前はもう少し(楽観的に)両者を直結させて考えていたのですが、今は切り離して考えています。両者は性質上も(研究/教育)、経済的にも(学費を払う/給与を得る)、制度的にも(論文審査/教員人事)、世代的にも(二十代末/三十代半ば)断絶しています。それをつなげて考える方に無理があります。その無理を可能にするフィクションがかつて成立していたとしても、それは良くも悪くも幸福な、特別な時代だったのです。逆に、職業としての大学教員を純粋に目指すのであれば、研究などせずに、昨今の政治家同様、売れる本を書いたりテレビに出たり、官庁や企業で業績をあげる方が近道かもしれません。一芸入試ならぬ、一芸大学教授の時代です。まさに悪夢ですが。
まあ悪い冗談はさておくとしても、本人にライフコースをまず自分で描いてもらって、その上で本当に必要ならば博士号を取る、という指導がこれまで以上に大切になります。理想を言えば、すでに何らかの職業に就いている人が、その仕事を続けながら学位を取る、というあり方が望ましい。というのも博士課程は、研究の進め方の面でも、取得単位の面でも、学費の面でも、メインの仕事と両立しうると考えられるからです。どうせ五年くらいはかかるものです。どうせそれのみには集中できないものです、長期戦です(私の場合は極端ですが)。また昨今は博士課程の学費を国立以下に設定している私学もあります。本人の努力があって、職場と大学の双方の理解があれば(理科系の場合は別でしょうが)仕事と両立できます。そしてその方が、本人にはもちろん、職場にも大学にも大きなメリットがあるはずです。
私の周囲でも、修士論文を書いて修了し、普通に(一流)企業に新卒で就職するパターンが近年増えていますが、それはいい傾向です。人文系でも修士号の価値が企業にそれなりに認められ、年齢制限もクリアしていることの証明だからです。しかも修士論文としてはきわめて優秀なものを書いて出て行く人が多いです。そういう人は、もちろん入社後も、優れた業績をあげています。
そう考えると、人文系の場合、学士号(修士号でも可)を取ってひとまず何らかの職に就き、その上で、博士号が必要になったら、また社会人入学で大学に戻ってくる、というのが、大学側にも学生側にも一番リスクが低いのではないでしょうか。なお私が今考えているのは、大学業界・社会全体にとってリスクをいかに合理的に減らす(減らせる)かという問題であって、個々の研究者の意志や心情の問題ではありません。色んな人がいるのはよく知ってます。全員を満足させるのはどだい無理です。
研究者養成大学(院)の場合はそうはいかない、という声もあるかも知れませんが、研究者養成大学とそうでない大学という区分自体をそろそろ廃棄した方がいいと私は考えています。実際、前者がすでにそのようには機能してないわけですから、いくらこの区分に理念的にこだわりたい人でも、早晩諦めざるを得ないと思います(これは、変な言い方ですが、私が言うのだから多分そんなに間違えてないです)。ただ私は、この区分が(かつてのように?)十全に機能してくれるのであれば、それなりに合理的でよいかなと考えます。ただその機能不全の末に今日のノラ博士問題があるわけですから、今のままでは無理です。
以上をまとめると次のようになります。
・研究者養成大学院であれ、そうでない大学院であれ(この区分自体は廃棄してもよい)博士課程の入進学者はすでに自立した仕事をもっている人を基本とする。入進学時に収入・資産審査を行う(これは海外留学のときに実際よくやられていること。ただ、それでは失業者は博士課程に入れないのか、という反論がありうるので、自由とリスクの釣り合いについては、いずれ考えます)。
・博士課程に在学中は、企業の側も大学の側も、特別の配慮をもって、本人の努力をバックアップする(無償でというのは無理なので、そのために後でも述べる「実益」を保証する)。
・博士課程の研究で優れた業績を上げた人には、出身大学や年齢によらず、公募によって研究者のポストを与え、そうでない人には、博士号取得後(あるいは取れなかった場合も)元の職場に復帰してもらう。
・人生の過程で、時間が許し、向学心がある人は、以上のプロセスに何度でもチャレンジすることができる。
もっと言えば、
・博士号の取得が(人文系であっても)本人の「精神的」満足に留まらず、本人にとってはもちろん、企業にとっても、大学にとっても「実益」になるようにする(そのためには給与や昇進のシステム、企業評価や大学評価のあり方などを、トップダウン方式(政策レベル)でいいので、然るべく整備する)。
さあこれで、社会的リスクが最も少ない博士課程教育のシステムが想像=創造できた気がするのだが、さて、いかがか。
まあ私が日々お世話になっている人々の中には学長やそれに準じる地位の御歴歴がおりますし、そういう方々がこれを読んだら(実際読んでることも知ってますが)鼻で笑うに違いないでしょうが、そういう方々にはもっと現実的に何とかしていただくとして。
何だか『国家』を書いたプラトンの気分がちょっと分かりました。
そしてまた今夜も引越の準備がろくに進みませんでした。