「希望は平和」ですが、違いますか?

赤木智弘『若者を見殺しにする国』は、いい本だと思う(メリットがデメリットをはるかに上回る著作、という意味)ということは以前にも書いた。しかし最近その存在を知った、この本のキャンペーンサイトなるブログを見ると、その中味たるやサイテーである。
つまりエフェクト、「現象」面まで含めたこの本の存在は、デメリットがメリットをはるかに上回る、といったところか。
ただし、テクスト良し、エフェクト悪し、という結論では、それこそまともな批判=吟味にはならないので、やはりテクスト自体の問題点を考えなくてはならないだろう。
この本のもとになった(というかそれに前説と後日談を付けただけ、という珍しい本のつくりなのだが)論文「希望は戦争」(『論座』2007年4月)に寄せられた「知識人の反応」を、赤木氏は大きく三つに分類している。
「1、お前こそひっぱたれるべきだ。2、戦争がはじまれば、弱者はもっとひどい目にあうぞ。3、運動すべきだ、連帯すべきだ。」
しかし私の感想は、これらのどれにもあてはまらない。
いわば「4、戦争はもうはじまっている。」ということだ。
彼は現状が平和だからそこに戦争を持ち込みたい、と考えているわけだが、逆に私は、微力かつ愚鈍ながら、この戦争状態の世界を、何とか少しでも平和に近づけたいと日々願って、思考し、行動しているつもりだ。そしてそれは私だけではないと思ってきた。とくに2001年9月11日以降はそうだ。
赤木氏が待ち焦がれる戦争=「国民全員に降り注ぐ生と死のギャンブル」は、残念ながらというべきか、あるいは彼にとっては願い通りというべきか、すでにわれわれの目の前で現実化しているではないか。
しかしこれは、何という認識図式の反転なのか。
基本的に私は、赤木氏の主張のエッセンスは理解し、彼に賛同している(つもり)なのである。受け入れがたいのは「現状=平和 vs 希望=戦争」というフレームのみである。
この唯一の、しかし致命的なズレは、どう収拾したらいいんだろう。
赤木氏の「戦争」概念が古いだけだろう、大空襲とか、そういうものを想像しているんだろう、そもそも特定の国民全員(のみ)が被害者となるような国家間の戦争というもの自体が前時代的だ、それはきっと彼を涵養したオタク文化にも一因があるのだろう、とか、そういう誰でもすぐに思いつく指摘は毛頭する気がない。
そしてこれは、赤木氏が単なる「平和ボケ」にすぎない、という批判でもない(それは「1、お前こそひっぱたれるべきだ。」に含まれている)。むしろ、彼は戦争状態のなかで戦争を自覚しない、いわば「戦争ボケ」なのだ。
従って私は、「戦争を希望」するというスキャンダラスな(とされている)主張以上に、それと暗黙裏にセットにされている、この現状を「平和」と呼んでしまうことの方が、はるかに問題だと思うのだ。何を希望するかなどは、それぞれの人の勝手でよろしい。勝手でよろしくないのは、あるいは議論の余地があるのは、現状認識である。
「現状が安定していて平和」などと言われると、知識人でも活動家でもない小市民(私もその一人だ)は、思わず「だったら別にいいじゃん」と思考停止し、現状維持に走ってしまいがちだ。だが実はそれは平和ではなく戦争の維持なのだ。本書のパフォーマティヴな側面としても、それはマイナスだと思うのだが。