印刷術文化が喪失したもの

「だがしかし、本が手で書き写されていた時代には、筆写者たちはやりがいのあることをしようとして、世評の定まった著者達を筆写していたのである。(…)何という驚くべき進歩がそういった訓練によってなされることであろうか! というのも、われわれは書くもの、それもまさに攪乱されず、急がず、とぎれとぎれにならず、穏やかに、終始整然と書くものについては、それだけいっそう正しく思索するからである。そうすれば確かに、粗略に理解するということもなくなり、著者自身とわれわれとの長い交流が介在することになるし、またそのことを通して、われわれはまさしく純粋な著者それ自身に変わってしまえるわけなのである。」(ヴィーコ『学問の方法』)
つまり、手書きの本を手書きで筆写するときには、そしてそのときにのみ、われわれは著者とまったく同じ行為を繰り返していることになる。
読むだけの読書は、著者の著述行為の反復・模倣には決してならないが、著者と同じだけの時間をかけて、同じだけのインクと紙を使い、同じように手を動かしながら筆写することで、われわれの身体・思考はかつてその本を書いていた著者と完全に同期する。そのときわれわれは単なる読者の位置をこえて「純粋な著者それ自身に変わる」のだ。
なるほど、それは思いつかなかったわ。さすがはサイードもイチオシのヴィーコ先生。
写本・写経が普遍的に有している宗教的意義もおそらくはそこにあるに違いない。
印刷術以降の読書では、どう頑張っても、読者はせいぜい「理想の読者」どまりで、著者になり変わりようはないわな。
印刷術以前と以後で一番変わったのは、実はこれではないか。
アンダーソンの議論にも追加してよい論点だろう。