テベリはテベリよ

三歳になるうちの娘は、誰に似たのか、平均以上に早いスピードで言語を習得し、こちらが驚くほどの活用能力を持って、ほぼ完全に日本語を使いこなしている。電話であまり知らない人とでもふつうに話す。学生との議論では滅多に負けない私が、この三歳児にはしばしば論破されて、玩具や菓子等を買わされる不利な立場に追い込まれている。レトリック、弁論術もそれくらい完成されている。
しかし、ただ一点において、彼女の日本語は幼児のそれとしてわれわれ大人のそれと厳然と区別される。
それはテレビのことを「テベリ」と言うことである。
「テレビとテベリはどう違うのかな、同じかな?」とこちらが問うても「テベリはテベリよ」と平気で返してくるところからみて、欧米諸言語でのL(エル)とR(アール)の発音の差異が日本人の多くにとって有意味ではないのと同様の事態が彼女のなかで起こっているようだ。ある年代以上の日本人に「ディスコだよ」と言っても「ああデスコね」と返してくるのと同じく、彼女にとって「テレビ」と「テベリ」は単語として無差異で識別不可能で識別不要なのだ。
だが、日本語のネイティヴ・スピーカーのほとんどにとって、テレビとテベリは明らかにまったく異なるはずである。確かにアナグラム的にはテレビ(te-re-bi)とテベリ(te-be-ri)は混同可能であるが…。五十音やアルファベット(母音と子音の組み合わせ)の観念を持たない彼女に、どうしてそんな混同が起こったのか、まったく謎である。幼児の言い間違いのパターンとしてけっこう一般的なのだろうか。とはいえ、繰り返すが、その一点以外、彼女の日本語運用能力は(未知の語彙は無数にあるとはいえ)まったく完璧なのだ。しかも単なる言い間違いなら、何度も言っているうちに直るはずだが、彼女はテレビとテベリの単語(音)の違いを認識していないのだから、直るはずはない。
ちなみにうちの両親は「DVD」のことをいつも「ディー・ブイ・デー」と発音する。「デスコ」と同様に「デー・ブイ・デー」と呼ぶのならまだしも納得できるが、一方の「D」を「ディー」と発音するのなら(つまりデーとディーが音として識別可能であるなら)二つともそう発音しようよ、あるいは少なくとも、なぜ自分が「デー・ブイ・ディー」ではなく「ディー・ブイ・デー」の方を選んだのかについて説明責任があるはずだよ、と、激しく私をいらつかせるのである。