前期入試、江文也、拷問之図

2月24日(土)
 午後までゆっくり寝て、色々やって、食事して、ビール飲んで、子供を風呂から上げて、さあ子供寝せたらコーヒーでも煎れて音楽聴きながらバリバリ仕事するぞー、と思っていたタイミングで、携帯電話。輪島夫妻が飲み仲間と赤羽に来てるというので、それならぜひご挨拶に伺います、と全裸で即答。彼らはまるます家にふられて別の飲み屋におり、今から移動とのこと。移動先は何と清水屋。一番街商店街のただの酒屋だ。うちの最寄りでハートランドを売ってるからいつも酒類を買ってる店だ。ここの若旦那が大変勉強家であることは前から知っていたが、今夜は試飲大会らしい。アーチストや研究者が自分を訪ねてきた来客を過剰にもてなすのと同じく、真の酒屋は酒好きを相手に商売などしない。試飲とは名ばかりで、端から見れば、ほとんど「あれー、この店って、角打ちやってたんだねー」と勘違いされること間違い無しの様相。何気なく出てくるお漬け物も焼酎に合う合う。若旦那もこういうの久しぶりでよほど嬉しいのか、どうみても懐が重そうにはみえない酔客達を前に、いろいろと喋りながら、新しいビンの栓を抜く抜く。こちらもしらふなのは私だけで、みんなはまったく気を遣う様子もなく、試飲しまくり。つーか、そういうのは試飲とは言いませんよ! 呼ばれて来たにも関わらず、唯一の地元人である私としては、失礼がないだろうかと冷や汗もの。それも杞憂だったようで、ハートランドと丸眞と年浅のワインくらいしか買ったことのない行きつけの酒屋(いつも行くと娘にゆで卵をくれる)は、いっぱしの蔵元に早変わり。あんなすごい酒屋だったとは知らなんだ。ちと反省。ビジターの視点を通して自分の街の魅力を再発見する典型的事例でした。その後、みなさんを駅に送ったのだが、風呂上がりのせいもあろうが、異常に寒い夜だった。
2月25日(日)
 日曜なのに七時起き。多少頭がずきっとするのは昨晩の残りか。今日は前期日程の入試監督だ。正門の前は異様な人だかり。予備校とか応援団とかは一目で分かるが、まったくジャンル不明な人達も多数。派手な三色旗(ルーマニア国旗みたいなやつ)を振ってる人までいる始末だ。文学部は理科一類の受験場なので、理系の国語と数学を担当。理系のせいもあるかも知れないが、受験生は男女とも私の頃よりも総じてダサいです。これが今の高校生かと、かえって安心した。自分の受験ははるか記憶の彼方、もうすっかり親の目線で受験生をみてしまいます。だが弁当はうまかった。そして午後は眠かった。
2月26日(月)
 午前中から所用で家族で外出し、近所をうろうろする。昼ご飯は赤羽唯一の沖縄料理屋もーれーもーれー。本当はイタリアン(赤羽で唯一まともにデートで使える最後の砦的な店)に行こうと思ったのだが、行ったらつぶれてた。赤羽危うしである。久しぶりに食べた沖縄そばは美味かったが。たまの家族サービスを演出するべく、本屋を経由して、ケーキ屋に移動。帰宅後の私は、夕方まで寝てしまう。起床後、暗くなりかけの中をおもむろに自転車を蹴ってオーケー十条店へ。どういう仕掛けだか知らないが、相変わらず安い。牛乳120円台、ハーゲンダッツ175円、カゴメトマトジュース無塩199円(むろん常時だ)の店を私は他に知らない。晩酌タイムを経て、子供を風呂に入れてる最中に私の携帯が鳴り、相方が応える(そういえば、うちに電話を下さる方、私がいつも風呂に入ってる印象があるでしょうが、実際には八時半前から九時過ぎという一番電話しやすい時間帯に子供と入ってるだけですので。携帯も相方が出るし、気にしないでじゃんじゃんかけてください)。十年来のおつきあいの某編集者(大ベテラン)が帰宅途中に赤羽に寄るという。江文也のCDを借りるお願いをしていたのだ。お時間を取らせるのは申し訳ないのでこちらはさっと改札で会って手渡しを想定していたのだが、ちょっと話そうということなので、風呂上がりの顔して手ぶらでいくのはあまりだろうと思い、急遽、部屋で本や資料や最近書いたものをひっかき集めて、どうにか打ち合わせモードに変身。まずは出たばかりの『日本戦後音楽史(上)1945-1973』を頂いたのだが、これは私宛てではなく、うちの相方がこの本の楽譜を作ったためである(もちろん、私は買わせて頂きますよ)。これはわれわれ音楽関係者にとって間違いなくメルクマール的(もっといえばデンクマール的)な本になるだろう。二・二八事件ホウ・シャオシェン、江文也の三題噺が彼がいま追っかけているネタなのだが、戦後、台湾では文化漢奸といわれ、本国では日帝の手先と言われて弾圧された江文也のアイデンティティと思想(彼は若い頃に孔子の音楽論を日本語で出版している、という事実を今日初めて知った)はいかなるものだったのか、正当に理解して掬い(救い)出す作業は(しかもわれわれ日本人がやるのは)誠に困難をきわめる。誰か中国語できる若い人をそそのかせて研究させよう、というのが今宵の結論。
2月27日(火)
 朝まで原稿を書いていたために、昼過ぎまで寝てしまう。夕方、娘を自転車にのっけて丸健におでん種を買いに行く。サラリーマン達が立ち飲みで盛り上がっていたため、思わず誘惑に負けて、急遽予定を変更し、その場でいくつか食べてしまう。冬、宵の口、アーケード、陽気に騒ぎながら立ち食いをする大人達、そしてそこで父と食べたおでんの味、これらはいかなる記憶として二歳児の記憶に刻まれていくのか、とふと考えてしまう。丸健は別に安いわけではないので、時々の贅沢なのだが、さすがにジャガイモを丸々一個は一般家庭では芯まで炊けないので、おでんといえばここで、という地元の定説には抗えない。おかげさまで娘は、買ったおでん種の名称を母親に一つずつ言える程度には食いしん坊に成長しました。
2月28日(水)
 朝、やっと書き上げた第一章をメールで送信。OpalのファイルからWord形式に出力、Jeditで開いた後でNisusWriter上にペーストすれば、ギリシャ語も文字化けしないことを発見。ようやくOS Xで文章を書くのに慣れてきた感じである(ついでに最近のMacネタとしては、FileMakerが8.5でようやくUnicode化され、多言語を扱う研究者に使いやすくなった)。内容が無味乾燥な割には面倒くさい部分なので、思ったよりも時間がかかってしまったし、分量も長くなってしまった。一次文献がラテン語(一部イタリア語)というのが何より疲れる理由だ。数年前に読めたはずものをまた辞書と文法書をひきながら読み返すときほど、空しいことはない。テキスト、辞書、文法書、近代語での翻訳、二次文献、などなどを膝の上にどんどん重ねていくその姿は、他人がみたらほとんど、子供の頃怖い本でみた拷問の図である。さらにグローブ音楽事典(しかもわずか数行の項目のために)など引っ張り出した日には、憲兵も思わず目を背けたくなる程の姿だという。純粋に思いついたことだけを書けばすごいものが書けてしまう作家(そんな人いないだろうけど)みたいな研究者の道は果てしなく遠いのでしょうか。それらの拷問具をもうしばらくは見ないで済みますようにと、ボックスや本棚にしまい込んでから、しばし仮眠。数時間後、朝食もそこそこに本郷に向かう。そして帰宅したのは夜の十一時だ。年度末に向けた諸々に学会誌の締切が重なって、もうめちゃくちゃな一日。帰ったら帰ったで、税金関係の詰めの作業だ。だが昼は、工学部のサブウェイで「野菜を多めに」と言えば、ほとんど親の敵のように無料で盛ってくれる(例えばトマト・スライスは二枚から四枚へ)ことを発見し、少し賢くなった一日でした。
 あと、もうじき現実化することを先にいっておくと、この2007年春以降、日本全国でうんざりするほど繰り返し発話され場面が目撃される質問の一つは、間違いなく「助教って何ですか(クエスチョンマーク+カッコ笑い)」であろう。そしてこれを私に向かって発した人からは、一回につきもれなく100円ずつを頂きますので、くれぐれも気をつけるか、もしくは予め小銭をご用意下さい。