私の一週間(7/3-7/9)

7月3日(月)
 本郷。このところキツイ月曜が多かったが、今日はわりと普通の一日。帰宅後、博士論文のRILM用の英語要旨を書く。RILMとかPhilosopher's Indexとかの要旨作成依頼は、論文出版に付随する「後始末」の一環として、今までも可能な限り応えることにしてきたが、どれだけ効果があるのか不明。自分の業績が半永久的にアーカーヴ化されるという抽象的欲望を満たす程度か。ネットですぐ見れないのがネック。それにしても「論文の原語題名を欧文で」という要請は実にナンセンスかと(実は今まではすべて欧文論文だったので今回初めて生じた問題)。「nashonaru aidentiti」って綴りがあやふやだから、ネットで確認しようとしたら結構ヒットして、他にもこんな馬鹿なことに付き合わされている人がいると分かって笑えたけど。いくらヘボン先生が偉いといっても、少なくとも欧語のカタカナ化はそのまま原語に戻すという原則でいいんでねーの? 「えーと「ティティ」ってどう綴るんだっけ? PCのローマ字入力だと「thithi」だよな。そうか正しくは「titi」なのか。」という具合に無駄な思考回路を経由させて、日本語ネイティヴ研究者の貴重な時間を一秒たりとも浪費させないで下さい(ヘボン式についてはhttp://d.hatena.ne.jp/aesthetica/20050823にも書いたが)。ところで、妻は娘と義理の母(つまり私の実母だが)と銀座にお買い物。今日の私の上下を合わせたのと同じくらいの値段の子供服を買ってくる。着せるのは楽しみだが、先が思いやられる。ハルマゲドンがそう遠くない悪寒が。

7月4日(火)
 多摩美、国立で講義。国立の演習はこのところディスカッションがもりあがっていい感じ。「攻撃的」にテクストを読み込む、という態度をみんなが徐々に身に付けつつある。帰宅途中、高田馬場の芳林堂でキットラー『グラモフォン〜』を購入。そのうち買おうと思ってるうちに店頭やAmazonから消えており、ここ数週間意識して探してた本。やっと見つけた。多少賞味期限が過ぎても、返さずにちゃんと在庫していてくれて、しかも独自のデータベースで正確に把握してる(ジュンクは在庫管理がわりと大雑把な印象)。中学生の頃から通ってるが(当時は池袋店)やっぱりこの本屋は、紀伊国屋とかよりも、はるかに信頼できるわ、と再認識。ほどよくマイナーなので、今回みたいに古くても在庫残ってる確率高いし。東京で一番好きな本屋かも。帰宅後、食事してビール飲んで風呂入ってテレビで野球みてたところに、原稿依頼の電話が一本。電話を頂くのは初めての偉い方なので緊張したが、応対は全裸にて。最近は夏休みがあるから、と気が大きくなって、色々引き受けています。やはりハルマゲドンがそう遠くない悪寒が。

7月5日(水)
 本郷。教授会があったので、色々なことがバタバタと決まり、助手も大忙し。宮本さんが先週の御礼にと扇屋のお菓子を持ってきてくれたので学生といただく。ごちそうさまでした>宮本さん。帰宅後はナイターを観た後、比較的時間があったので、学期末の試験問題とレポート課題を一気呵成に作成。さあ前期もあと一踏ん張りだ。

7月6日(木)
 仙川、広尾で講義。桐朋の授業は他に先駆けて今日で前期終了。さて、聖心のリアクション・ペーパーの質の高さにはいつもながら感心。授業を持つまで、この大学のこと、完全に誤解してましたよ、オジサンは。卒業生が「お嫁さん」候補としてのみならず、企業や官公庁でもウケがよいのもむべなるかな。付属校の教育がいいのか、カトリックだからなのか、入試制度がうまくいっているのか、あるいは私が勝手にそう思うだけか、理由は知りませんが、現代日本の二十歳前後の女性のなかで外面も内面も明らかに良質な層が集まっている。この年になるまで聖心(出身)の女性と運命の出会いをしなかったわが人生を真剣に恨みますよ。最近、女子大が共学化する傾向があるけど、聖心が共学化したら、間違いなくレベルが低い男子達が入ってきて、もろとも落ちぶれる気がする(というより、彼女たちの知的経済的階層に対応する男子学生達のイメージが像を結びにくい)。もちろん女子大(的なもの)の弊害もそれなりにあって、減っていくのは時代の流れなのだろうけど、この大学をみてると、女子大の可能性を将来にわたってもっとポジティヴに考える方向もありなのかな、と。

7月7日(金)
 ゼミの後、本郷で久しぶりに仕事関係ではない飲み会。うちの研究室の博士課程の学生、東洋史研究室の博士課程の学生、春日にある某音楽専門洋書店の営業担当、それと私の、計四人。実は三人は、私がまだ新米ペーペーだった頃に国立音大で授業に出ていた学生達で、奇妙な縁で現在四人とも本郷(近辺)にいる、ということを祝して再会したのだ。いやー、あの頃はまだガキンチョだった彼ら彼女らが、いまやすっかり大人のオトコ、オンナですよ。二十代も半ばを越えれば、恋バナの一つや二つ、三つや四つは当たり前すよ、センセイ。相対的に私が幼児化した気がして恥ずかしかったす。まあみんな仕事(研究)も順調なようで、良かったです。卒業以来初めて再会した東洋史研究の人は、十八世紀フランスの宣教師(アミオ)と中国音楽の関わりについて研究しているとのこと。すんごくいいところに目を付けてます。期待。某アカデミ屋さん(あ、書いちゃった)の人も長いつきあいになりそうな予感。

7月8日(土)
 成城で美学会の委員会と例会。例会では十七世紀フランスでの遠近法(批判)と美術と数学の境界問題、さらにそこからの近代美術批評の誕生みたいな話がきけてためになった。ジャンルをこえた新旧論争の研究会をやりましょうよと、発表者の人と意気投合。あと懇親会で初めて声をかけられた人から『ワーグナー・フォーラム』の論文読みましたよと言われたのだが、うちにはまだ届いてないのだが、どうなってるのだろうか。まあいずれにしても、確かにもう出てるようですので、興味ある方はよろしく(http://www.press.tokai.ac.jp/bookdetail.jsp?isbn_code=ISBN4-486-01734-X)。

7月9日(日)
 久しぶりに実家に家族が集合。弟夫妻の結婚式後、全員が顔を揃えるのは初めて。なのでホントは、結婚式を振り返って写真でも見ながら皆であれこれと語り合う日としようと意識的に気を使ったつもりなのだが、恐れていた通りというか案の定というか、孫(姪)と遊ぶ日になってしまった。夫婦にとって「子はかすがい」であるばかりでなく、孫(または甥、姪)の誕生は家族の関係を再定義、もっというと初期化する。われわれ夫婦が二人だけなら、結婚後、双方の親兄弟に会う機会は年々減っていったのではないか、だって別段改めて話すこともないし、としばしば考える。だが逆にいえば、孫の誕生によって初期化される(程度の)親子の結びつきは、どこか安易で、人間同士のつきあいの真剣さを欠いている、とも思う。酒が入らなければ会として成立しない友人の集まりにもどこか似ている。だから、この子がいなかったとして、自分は今どのように(とくに義理の)親と相対し、どのように親孝行するのか(できるのか)をつねに並行世界として想像しなくてはならない、と思う。まあ、むこうは私が同席しなくても孫さえいればよい(逆は断じて不可)みたいですけど(笑)。