ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ

 「あなたはどういう基準で人と付き合っているんですか?」という質問を私はとても頻繁に受ける。そういう質問をする人は、私の(とくにプライベートでの)人付き合いの範囲やスタイルをかなり不思議に思っているのだ。これに対して私はいつも決まった答えを用意してある。私が人を選ぶときに、もっとも重視するポイントは「教養」です、と。
 といってもそこでの「教養」とは、学や知識がどれだけあるかとはあまり関係がない。私は「教養」を自分なりに色々と定義しているが、そのうち主要なものの一つに「飲み屋で偶々隣り合わせになった人と会話を楽しむことができるか」というものがある。相手をよく見て、自分がその人からどのように見られているのかを考え、上手に話題を提供し、場合によっては言語を選択し、さらにそうした一連の状況を自らも積極的に楽しみ、かつ適当なところで打ち切る、しかも軽く酔っぱらいながらそれを自然に遂行する、という能力である(別に飲み屋でなくてもいいのだが、普通のレストランとかではなかなかそうしたやりとりが発生しないのが実際だ)。
 このような意味での教養の有無は、経験的にいって、その人の学歴や経済的階層とはほとんど関係がない。私が仕事上接することが多い、比較的に高偏差値の人々のなかにも、残念なことに、こうした能力をまったく持たない人が少なくない。逆に、高等教育を受けず、本などあまり読まない人のなかにも、それができる人がいる。私が仕事関係を離れて純粋に友達として付き合ってきた人達には、そうした人々が多い。
 とはいえ、これは単なるコミュニケーション能力の優劣とも異なる。言うまでもなく、ただの「酒飲み」とも違う。「礼儀作法」のような形式的概念で片付けることもできない。公共の場で初めて会った人と長時間の会話を楽しむためには、それなりの経験や知識の獲得・蓄積・応用が必要となるからだ。まさに「教養」と呼びたくなるようなハビトゥスなのだ。もっともこのように教養を規定するのは、私が基本的に酒を飲むことが多い人間で、私の周りの人達も同様だからかもしれないが。
 だが問題は、こうした「教養」をどうすれば獲得できるか、という点である。果たしてそれは「教育」可能な資質なのだろうか? 自分の子に対しては、学力はあってもなくてもいいので、教養はぜひともある人間に育って欲しいと思っているのだが、そのために幼少時から飲み屋に連れて行くのは、他人に言われなくても、絶対に間違えているような気がする。言うまでもなく、こうした教養の形成のためには、飲み屋での「実地訓練」よりも、むしろそこにいない時間に何をやっているかの方がずっと重要だからだ。
 そしてこの原則は、プライベートとパブリックの領域の行き来に関して、ある程度、一般的にあてはまる気がする。学校もそうだろう。そうした役割が今日の社会でしばしば期待されるのにも関わらず、学校で「教養」を一から十まで教え込むことなど不可能だ。それは小学校の教室も大学のゼミも同じだ。そこは自らがすでに持っている「教養」を活かし、磨きをかけることを「楽しむ」場であり、その意味で飲み屋での会話と変わらない。ゼロからでは何も始まらない。子供の教育の場合でも、まず最初の一歩を獲得するのは、明らかに個人のプライベートな領域においてである。だがその人の「教養」の真価が計られるのは、あくまでも内(家)ではなく外(飲み屋・教室)においてである。それはいわば既存のルールと勝敗のないゲームを日々遂行するための技法である。それが私が考える「教養」だ。
 いわゆる学問や知識の習得がどうしても個性の抑圧や社会的生存競争に結びついてしまうのに対し、こうした意味での教養は、うまくやれば、あらゆる人々に平和に行き渡り、その結果、居心地のよい飲み屋が増えるのではないかと楽観的に信じたいのだが、いかがなものか。
 とはいえ分からないのは、子供には一体幾つくらいから家で酒の味を覚えさせるべきかということだ。まだ大分先の話なのだが。