表象文化論学会(仮称)設立準備大会

という会にシンポジウム・パネリストとして出ます。
11月19日と20日に東大駒場キャンパスで開催されるもので、私が出るのは20日の午前中、パネルC「近代の上演」というセッションです。
(チラシは以下からDLできます。http://www.repre.org/flyer.pdf
内容の告知を送るリミットが過ぎているのですが、まだ思案中です。
タイトルを「可聴化されたネイション──音楽と《ドイツ的なもの》」としたので、本当はいろいろ話したいのですが、どうやら持ち時間(一人が話す分)が15分くらいしかないそうなので、トピックを一つか二つに絞ってお話しするのが良いかな、と思っているところです。何にせよ、ディスカッション重視というのは、いい傾向です。

タイトルはもちろん原武史さん(以前、音楽学会のシンポジウムでご一緒したこともある)の『可視化された帝国』を意識していて、ヘーゲルのいう「主客未分化」の芸術としての音楽、という命題を導入することで、原さんの「視覚中心」の議論をもう一度アンダーソンの「聴覚中心」の議論に引き戻そうとする意図があります(アンダーソン批判までできるかどうかは不明ですが)。ただこの辺りの説明するだけで十分時間が過ぎそうな気がするし、これだけ説明しても肝心の「上演」の話につながらないので、困ったものです。

「上演」がテーマになっているので、ヴァーグナーあたりを持ってこようかなと考えていますが、ヴァーグナーを中心に据えると、どんなに成功したところで「クラシック音楽の政治的背景を手際よく解説した発表」以上の印象を与えない気もするし…。あと少し考えます。

「芸術と政治」云々といった論点は、今となってはどの学会でも常套的なトピックなので、わざわざ新学会を立ち上げるからには、他学会とどうやって差異化するか、というのが一つのポイントでしょう。他のシンポジウムをみてみると、キュレーターなどを交えて「知の現場」などを論じたりするようで、どうやら「実践」というのが一つの大きな売りのようですが、下手すると表象文化論が単なるアートマネージメント系の学科になってしまうようで、OBとして少し心配しています。やっぱり理論で押しまくるのが表象文化論の魅力でしょ、「現場」とか言い出す時点ですでに「知」の敗北でしょ、そもそもフーコー読んでる人がよくそういうこと言えるよね、と虚しく思うのであります。フーコーに限らず、いわゆるフランス現代思想のもっとも良質な部分は、すでに「ここ」にはなく、カルスタとか法哲学とか、そっちの方の分野に持っていかれてしまったのでしょうか。これは私の所属している他の学会についても思うことですけど、私、この新たな「学会」にはあえて「高望み」するので、予め言っておきます。

いずれにせよ、反アカデミズム・反学会(的なもの)・インターディシプリンを謳って鳴り物入りで登場した学科が、こうして「一学会」を立ち上げる段階に至った、という点については、私のようなOBがとやかく言う立場にはないですが、いろんな意味で「時代」を感じますね。フランス現代思想(誰かの著作じゃないけど、フーコードゥルーズデリダ)の全面的影響下にあった設立当時はすっかり今は昔、という意味での「時代」、そしてまた、芸術関連(だけでないですけど)の若手研究者の「業績作り」が、「学会作り」を促すほど、かつてないくらい切実になった、この「時代」。私が考えるに、これら二つの「時代」はじつは一つのコインの裏表に他ならないのですが、ここでそれを説明するといささか角が立つかも知れないので、よしておきます。会の当日まで取っておきましょう。

誤解のないように繰り返しておきますが、私はこの学会にはあえて「高望み」しますから。