国会議員の作り方

今回の衆院選、直接の知り合いが二人当選した(あとは身内の出馬騒ぎがあったが、これは直前で回避)。二人とも30代半ば。一人(女)は小選挙区、一人(男)は比例で復活。どちらも自民の地滑りに乗っかって通った感じだ。ちなみに前者は刺客の一人。
おめでとう、と言いたいところなんだけど、二人ともどんな奴かよく知ってるから、素直に歓迎できない。悪く言えば自己顕示欲のかたまり、柔らかく言うと自分探し系、そういう人が公募で選ばれて、どさくさに紛れて通った、という幸運なケースなのだが(知ってるからあえて強く言うけど)、他にもそういう奴らが結構いそうだな、今回は。

条件としては有名大学卒業程度の経歴、市民団体代表程度の活動、出馬金+アルファ(まあこれがでかいのだが)の資金、あとまあ、若いとか女性だとかの話題性(というか単なる「有徴性」)、これくらいがクリアーできれば、誰でも公募に通ったのでは?と思わざるを得ない。で、公募に通れば、あとは党公認として、どんなにトンデモ系でも地元の県議らは応援しないわけにいかない。で、あとはこの地滑りだ。結果的に、資金や基盤やネームバリューがなく政治的野心を持つだけの若者候補が通りやすい環境がこれほど整った選挙はこれまでなかったのではないか。自民党の分裂、しかも急な選挙戦、ということから今回、公募という異例のやり方が取られたのだろうが、そのシステムのザル具合が、彼ら彼女らを当選させたのだろう。まあ連続当選は厳しいだろうけど、この四年間で業績をつめば、次につながるかも分からないからなあ。政治はコワイや。

そんな思いを抱きながら、テレビの開票状況を眺める。地元(東京12区)の情勢も含め、妻と一緒にいろいろ憤りつつ、だったら俺は『国会議員の作り方』という本を書いちゃうぞ、と息巻くが、数秒後には、そんなものだれでも書けることに気付いてため息。むしろ「国会議員の作り方」を誰でも知っているのに、まともな人間は誰も議員になろうとしない、という現代日本の状況こそが問題なのだとも気付く。同世代のなかで雄弁会とか政経塾とかに行った奴らの顔を思い浮かべてもそうだ。どうしてああいう人々に限ってリテラルな、大文字の政治の世界に行きたがるのか、そして逆に、本当にアタマのいい(ゆえに小文字の政治に敏感な)奴らはどうしてそれを避けて通るのか、それが問題なのではないか。

でもこの問題にどうやってアプローチすれば良いんですかね? まったく分かりません。それでは、取りあえず、この捉えにくい問題を適切に命題化するとどうなるのでしょうか?
「今の日本には知識人政党が成立しにくい件について」
「日々の議論でエラソーなこと言ってる奴に限って、投票に行かず、またそれを指摘されるとその正当性を延々と説く件について」
「若者の政治離れが進むなかであえて政治家を目指す若者に共通してみられる、ある種の社会的病理について」
雄弁会サークルのなかに、ある特定の体形が多くみられる件について」
「合コンで一緒になった地味で無口な女性に限って、来なくてもいいのに三次会くらいまでくっついてきて、終電が無くなった頃合いをみて、堰を切ったように自分の政治的立場を語り出す件について」
「江本は実際に出馬し、星野は将来要請されて出馬するかも知れないが、江川は決してしないであろう件について」
「小学生は必ず、ほとんど義務のように、選挙ポスターの眼と鼻に画鋲を突き刺す件について」
まあこういったところでしょうか。

でも、いざ同世代の知り合いが当選すると、複雑な思いがしますね。いくらトンデモ系でも、一応、議員先生だしなあ。いずれにせよ最終的には、俺は何をやってるんだ、と例によって怠惰な日常の反省に行きつくのでありました。