やってて良かったヘボン式?

mixiのコミュに「無茶な子供の名前にイライラ」というのがあるのを、知人の一覧から知った。
「無茶な子の名前」というのは、現代日本の言語的・文化的アイデンティティ・クライシスの象徴的あらわれである、と私は勝手に考えている。名前それ自体ではなく、「イライラする」感情の方がクライシスなのだ。「伝統的なもの」(子が付く女子の名、数字が入る男子の名)や「日本的なもの」(大和言葉)を拒否して、「中性的なもの」、「ヨーロッパ的なもの」(カタカナ)を指向する傾向は、まさに今日的な「捻れ」そのものだ。カタカナというかたちでヨーロッパのものを取り込むこと自体が、きわめて柔軟かつ厄介な日本主義の根本にある、ということを誰か教えてあげるべきだろう。
かくいう私も、昨年、初の子供が生まれ、名前に苦心した経験がある。本屋に行くと、色々あるわけです、その手の本が。参考にするつもりは毛頭なかったのだが、職業柄、興味本位で何冊か買って読んでみた。先にも言ったように、子供の名前をどう付けるか、ということ自体に、今日の文化的諸問題が集約されていると考えたからだ(読んだ結果、そう気付いた、という方が正しいが)。
そのうちの一冊に『世界に通じるこどもの名前』(あえて著者名と出版社は書かない)というのがあるのだが、意外なことに、これが非常にポリティカルなトーンを持っていた。まず、この本がすすめる「海外に通じる名前」の要点は、母音重視の読みやすさ(アイラ、ルナ)、強引にミドルネームを付ける(姓=佐藤、名=キャサリン佳子)、非キリスト教圏にも通じやすい聖書=キリスト教圏の名前(伊里也=イリヤ)などであり、まさに「イライラ」する名前のオンパレードである。そして著者は、日本人の名前が「海外で通じにくい」大きな理由として、ヘボン式という現行の法規制を敵視する。なるほど、先にみたような名前達は、ことごとくヘボン式表記と齟齬を来す。これに対する対抗策として、著者は「非ヘボン式のパスポートを取るための方法に、海外出産があります」とか、「出産の際に、アルファベットの名前入りの英文の出産証明書をお医者さんに書いていただく」とか、具体的アドヴァイスをする。さらには、ヘボン式以外の綴りを認めないのは「行政の怠慢」と弾劾し、「私たちに賛同し、非ヘボン式表記のパスポートをお子さんに持たせてあげたいとお考えになったら、どうか行動して下さい」と書く。
小学校で習うヘボン式表記が日本人の「カタカナ英語」の元凶であり、かえって日本人の国際進出を妨げている、という論調は知っていたが、「子供の名前」という身近なテーマとリンクすることで、ヘボン式は一気に、われわれの自由なアイデンティティを疎外する不条理な戸籍制度を象徴する「悪役」へと変貌するのだ(確か野坂昭如も昔そんな小説を書いていたが)。
だけどヘボンは、和英辞典の作成と聖書翻訳の必要上から、初めて日本語(五十音)をアルファベットに置き換えた人物であり、ヘボン式が今日でも唯一無二のルールとして固定化されている現在の法制度は確かに問題ありとしても、この表記方式自体は善でも悪でもないだろう。実際、この著者のような非ヘボン式の提唱者達は、ヘボン式にかわる新たな変音方式を作るべきだと主張するのではなく、エリザベスのパスポートは「Erizabesu」ではなく「Elizabeth」と綴らせてくれと、つまり、いちいち五十音と対応させずに原語主義を認めよ、と主張しているのだ。これではヘボンもむくわれまい。原語主義で良いのだったらオレだってそのほうが楽でよかったよ、と彼は言うだろう。
ヘボン式の提唱者達が犯しやすい過ちは、まさにこの点にある。もし明日からエリザベスのパスポートが「Elizabeth」と表記可能となっても、それは法制度改革としては前進かも知れないが、文化的にはほとんど無意味であり、現代日本人のアイデンティティ・クライシスはいっこうに解決されない。例えば東欧諸語と西欧諸語の対応関係を考えれば分かるように、「Erizabesu」と「Elizabeth」くらいの綴りの違いは世界中にざらにある。逆に、ヘボン式は比較的良くできている方だ、とすら言ってよいかもしれない。そもそも、作為的で恣意的でない表記法など存在しないのだ。
むしろ深刻と思われるのは、「ヘボン式の綴りが日本人の名前が世界的に通用することを妨げている」という妄想、さらには「日本人は名前の読みにくさによって国際的な活躍の舞台で損をしている」という妄想の方である。「世界的に通用」とか「国際的な活躍」というが、具体的に何のことなのか、この本を読んでもよく見えてこないのである。海外赴任先でホームパーティに呼ばれてあだ名で呼び合ったり子供を紹介し合う、といった情景が、どうにか現実的なビジョンとして提示されているけれど、だったら駅前留学とか、自己責任で戦地に赴くとかの方がよほど「国際的」ではないのかと思ってしまう。名前なんて別にいいじゃん、本名じゃなくたって。大体、パスポートや戸籍の表記と日常生活での呼び方を厳密に対応させたがる習慣自体が、きわめて日本的である、という事実をみずして、何が「国際的」なのか。会社や大学の同僚同士が互いをもっぱら「ファミリーネーム」で呼び合うことだって、そうでしょ。綴り方とか法制度とかの問題じゃないんですよ。
子供に「国際的」な名前を考える前に、「世界で通用する日本人」というイメージの内実や歴史性、イデオロギー性、「日本人」と「名前」との関係が「国際的」にみていかなる特殊性を持つかなどを、もう少し考え直した方がいいよ、と思うわけであります。
えっ、それでうちの子の名前は何か、って? 「イライラ」させてすみませんでした。