ミューズ亡き後のミュージアム、あるいは聖なるゴミ箱

すでにご存じの方も多いと思うが、美術批評家・詩人の建畠晢氏が、この四月から多摩美を離れて、国立国際美術館(大阪)の館長に着任した。
これを記念して、国立国際美術館学芸員の方が、美術館の現状と展望をめぐる館長との対談を企画して、その相手役に私を選んできた。
建畠さんをよく知っていて、観客を適当に笑わせることができる人間、といった程度の認識であろうが、音楽とはまったく関係のない、「美学者」(そういう肩書きになってる)としての仕事をするのは、とても久しぶりな気がする。部外者であることを良いことに言いたい放題言って、日頃のストレスを発散しようと思っている(笑)。日時の詳細はまだ未定だが、五月中旬以降になる見通し。

いま日本の美術館は「指定管理者制度」(民間への業務委託が可能になる)の導入を前にして、それに関する議論で大きく揺れている(美術史学会の例会でもテーマとなったとのこと)らしいが、そのこと自体、一般にはほとんど知られていないのではないか(実際、私は美術館関連書を本屋で探すなかで初めて知った)。昨今の不景気のあおりを食って、美術館も国立大学や公益法人と同じく、公の機関としてのレゾンデートルが問われているわけだ。だが、もっと前から美術館は機能停止状態に陥っていたはずである。

デュシャン以降、あるいは「芸術の終焉」以降、それでもなお人々が美術館に足を運ぶのは、ジジェクの言葉を借りれば、「〈もの〉の聖なる場所に展示されたゴミ」を見に行くためである。つまり、展示されている作品が「ゴミ」であることを知りつつ、それと「聖なる場所」それ自体とのギャップを確認しに行くのだ。そして「聖なる場所」を維持=創出するためには、むしろ、そこに置かれるものは「ゴミ」でなくてはならない。聖なる場所(美術館)とゴミ(作品)との間の「ギャップ=空隙」は、解消されるべきものではなく、むしろ積極的に創り出されなくてはならないのだ。
ジジェクに特有のこのトリッキーな弁証法的理論を、市民オンブズマンにも分かりやすいかたちに言い直すとこうなる。現在、美術館は、自らの文化的価値を捏造することを唯一の目的としている、しかもその目的のために、莫大な予算を使ってゴミを買っているのだ、と。美術館(およびそれにつけ込む作家、批評家)は、もっとも悪質なかたちで「芸術」(あるいは「前衛」)のイデオロギーを延命させているのだ。自己正当化のために、しかもわれわれの税金を使って。

数億円を出してゴッホの晩年作品を買うか、それとも数千万円を出して現代作家のゴミを買うか。プラクティカルにはそれが問題であるが、本質的にはそれはどうでもいい気がする。大体、美術「市場」なるものにおいては、バブル崩壊後にして「芸術の終焉」以降である今日に至って、なお「投資」の概念が機能していることが厄介である。例えば、大学院を出てすぐの無能な学芸員が、美術館予算の枠内で、ゴミのような現代作品を購入する判断をしたとする。それに対して誰も文句がいえない構造になっている。それはゴミだよ、と言っても学芸員はそれは将来価値が認められる芸術だ、と反論するだろう。もしその学芸員を論破してその作品がただのゴミでしかないと同意させても、なおそいつは言うだろう。「これは将来、倍の値段で売れるゴミなんだよ」と。多分、そのゴミは美術館に収蔵されることで、芸術作品としての正当性と権威を獲得し、20年も経てば実際に倍の値段で売れるだろう。なるほど誰も文句はない。そしてもしそうならなかったとしても、その学芸員および美術館の責任が問われることはない。というのも、今度は「芸術の価値はお金では計れない」という金科玉条が彼らを守ってくれるからだ。
つまり美術館は、公的機関として負うべき社会的責任を、どこまでも「芸術」になすりつけることができる、特権的な機関である。「芸術」が美術館を必要としているのではない。逆である。美術館こそが「芸術」という、すでに死んだ観念を糧にしているのだ。

よって私の提案はこうだ。すべての美術館は、毎年、購入した全作品のリストと価格を言われなくても公開し、すべての作品のキャプションに購入年度と価格を記入すること。これによって観客のリテラシーは、学芸員から作品の「芸術的価値」の説明を受けるよりも、はるかに向上するだろう。芸術的価値の理解と講釈など、学芸員にとっては「お遊び」でしかなく、彼/女らの「真剣勝負」の場は、美術市場における投資ゲームにあるのなら、観客をその投資ゲームに巻き込むことが真に実践的な美術教育と言えるのではないだろうか。

といったことを、一国立美術館の館長に話して、はいそうですね、となるわけはないが、まあこの辺りのことを議論できれば面白い場になると思う。何より、もっと色々と調べて考えてみる必要がある。松宮秀治『ミュージアムの思想』は必読文献だと思うが、ミュージアム批判の分野で、他にも有益な文献はあるのだろうか?