〈音楽の国ドイツ〉の系譜学 第二巻刊行

前略。夏もそろそろ終わりですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
久々すぎて、ブログの書き方(文体)も忘れかけていますが、新著が出るのを機に近況報告を兼ねて書きます。
もうすぐ下記の本が出ます。

奥付は9月19日。うちの八歳児の誕生日とわずか一日違いです。実は彼女は八歳にして最近「奥付マニア」と化していて、自分の誕生日と同じ日の奥付に出会うことを楽しみに書店や図書館で背表紙をめくっているのですが、その意味で実に惜しかった。実は最初にAmazon等に告知が出た時点では、刊行予定日は8月31日でした。しかしこれが(主に8月初旬に私が集中講義の出張やらで多忙だったため)9月15日に延びたのです。この時点で、彼女はがぜん勢い付き「私の誕生日にしてー! そうお願いして!」というので、「いやそんなことできるわけないだろう、そもそも刊行を遅らせている最大の原因はお父さんがこうして××しているからだというのに、どの口からそんなことを言えるのか」と返しておきました。しかしながら、さらにこれが(主に三校で私が諸々面倒な注文を付けてしまったため。そうです、今回は三校までやったのです)9月19日になったわけです。この日付が出た時点で八歳児は、僅差による感激と失意を同時に受け入れて、「ああもおー、一日違いか!」と叫んでいましたが、私としては、こうしたインターネット上の情報と本の奥付は必ずしも同一ではないので現物を見るまで分からないよ、と言っていました(これは実際そうです)。で、本日見本が届いて確認したら、やはり19日でした。
この本の内容紹介文はサイトによって(おそらくは長さが個々に制約されているため)ヴァージョンがバラバラなので、表紙に掲載されている正規の内容紹介文を以下に記載します。

「借用と模倣」を得意とする国民という
ドイツ人のアイデンティティは、
十八世紀に、イタリアとフランスの音楽趣味を折衷する
「混合趣味」の音楽を全盛期に導いた。
だが十九世紀には、混合趣味は否定され、
「固有」で「根源的」な〈ドイツ音楽〉が希求されるようになる。
この〈ドイツ的なもの〉の構造転換をもたらしたものこそ、
〈フォルク〉の歌謡としての「民謡」の発見だった。
民謡がドイツ民族の精神的基盤となるまでの
ドラスティックな歴史のうねりを追う。

目次は出版社サイトでもご覧いただけますが、音楽の国民様式論争(イタリア音楽とフランス音楽の優劣論争)のドイツでの受容(ドイツ人の音楽家や理論家がそこでどのようなアイデンティティを育んだか)から、ドイツでの「混合趣味」の展開(理論と実践の両面)、混合趣味の精神を引き継ぐものとしての古典派の成立(普遍性とドイツ性の癒着)、混合趣味(論)の衰退とその背景の検討、その一つの(かつ最大の)要因(と推定されるもの)としての民謡の発見、という流れになっております。
私としては今回、一番本にする価値があると思っていたヘルダーの民謡論の部分も、調べたこと、考えたことをすべて(削除や圧縮せずに)「書ききる」ことができたので本望でした。これまで複数の論文では断片的にスポットを当てて書いてきましたが、やはりまとめて読めるのは読者にとって(冗長というデメリット以上に)簡便という大きなメリットがあるはず。ただしこれをヘルダーについての「モノグラフ」として出すには中途半端です(もっと当たらなくてはならない二次文献等がある)ので、今回のようなパッケージングが最善(というか私ができる精一杯)かなと。これを機に、ヘルダーの民謡論を含め、十八世紀半ば、初期ロマン主義の芸術思想や美学(この時代は英独仏の思想圏がかなりクロスしていますし、それが面白いところでもありますので、あえて「ドイツの」とは言わず)にもっと関心が集まれば、私としても嬉しいです。
また企画の段階では全三巻の分量をある程度揃えていたはずのシリーズ本ですが、第二巻の分量がかなり第一巻を超過してしまいまして、悩んでいたところ、編集者の方が「大丈夫です。紙の厚さを変える手があります」と。「なるほど!」と思いました。実際、本日見本が届いてまず確認したのが厚さでした(笑)。これはゲラの段階では分かりませんからね。で、ご覧の通り、

左の第一巻は228ページで、右の第二巻は318ページと、ほぼ1.4倍のページ数なのに、厚さはほとんど変わらず! さすがプロの仕事! それでいて値段は同じ! つまりお買い得! あれっ、ということは、出版社の側は思わぬ負担増ですね…。スミマセン。いつもいつもご迷惑をおかけしてしまいます。ただまあ、シリーズ物の「外見(そとみ)」を揃えるのに一般にそういう「裏技」があるということは、覚えておいて損は無いかと思います。逆に言えば、本は(その質だけでなく「量」も)「見かけ」に騙されてはいけない、ということでもあります。ちなみに左にあるのはたまたまテーブルの上にあった阿闍梨餅の箱(五個入り)です。先ほど四つ食べたので、もう軽すぎてブックエンドの代わりは果たせません。
さあこれから先は第三巻の刊行、すなわちシリーズの完結を目指して、頑張ります(そんなわけで、昨年から今年にかけては重度の「引き籠もり」生活が続いており、諸方面での非礼をお詫びいたします)。
最後に、ブログ更新が滞っていたこの間に刊行された書籍を幾つかご案内しておきます。

記号学会の機関誌で、2011年に開催した大会の報告集。これも出版社のサイトに目次がありますが、私は二つ論文を寄稿しております。
ビデオゲーム記号論的分析──〈スクリーンの二重化〉をめぐって」は大会で発表した原稿を論文化したもので、モリスの「記号過程の三分類」をバーチャル空間にあてはめる試みを行っています(ちなみにこの論文に対する批判的応答が松永伸司さんのサイト9bitにあります)。論じ残した「語用論的次元」、そして発表の時点では安直に語用的次元と結び付けていたものの、実証性が乏しいので論文では取り下げた「酔い」の問題も含めて、この線ではもう少しいけるな、と思っており、ヴァーチャルリアリティやマン・マシン・インターフェイス(MMI)の理論を現在少しずつ勉強中です。
「ゲーム研究のこれまでとこれから──感性学者の視点から」は書き下ろし。「ゲーム研究の歴史」を概観する日本語での最初(唯一)のテキスト(英語ではけっこうあるのですが)を意図して書いたものであると同時に、私が構想する「感性学」の現時点でのスケッチにもなっています。
ところで「ゲームについて日本語で書かれた学術的論集」というのは、この本が初めてだと思います。ゲーム研究は本当に様々なアプローチが可能ですから、記号学会が先鞭を付けたこの試みを、他の諸学会や学術機関もぜひ継続してもらいたいですね。広く、長く読まれていくであろうこの本に、非会員でありながら書かせていただいたことを光栄に思い、また感謝します。
子ども白書2013: 「子どもを大切にする国」をめざして

子ども白書2013: 「子どもを大切にする国」をめざして

「日本子どもを守る会」が(出版社を変えながらも)49年間、毎年出している白書。私は「「ゲーミフィケーション」の時代」という題目で、ゲームの項目を執筆しました。教育や子どもについての分野で文章を書くのは不慣れ(初めてかも)ですが、ゲーム研究をする際にはそれは避けて通れませんし、「エステティックス(感性学)はもっと子どもや教育の分野に取り組んでよい(これまでももっとそうするべきだった)」というのが私のかねてからの考えでもありますので、少しでもそれに貢献できればと思って寄稿しました。主に教育関係者や一般読者(とくに比較的高年齢層)に向けて書いたものですので、このブログを読まれている方々が読んでも内容的には「今ひとつ」かもしれませんが、機会がありましたらどうぞ。
白書という性格上、ニュートラルな記述を心掛けたのですが、最後の最後(校正段階)で(字数がもう少し入ると聞いて)血迷って、「友達とのネットワーク作り」は「ゲームの一部」(あるいはその前提)であるかもしれないが「ゲームそのもの」ではない、ゲームは「日常の連続」ではありえず、日常を「忘却・リセット」するものでなければならない、などと、著者自身の日常(主に、どうしてお父さんはゲームを研究しているのに子どもにDSを買ってくれないのか、という問題をめぐる八歳児との議論)を反映した特殊な主張が書き込まれております。
そしてその過程で、美学=感性学に立脚するゲーム研究者としては、きちんと「遊びの哲学」をやらなくてはいけないな、と痛感した次第です。この場合の「やる」というのは、細々と研究する──そうであれば十分すぎるくらいの蓄積があります──だけでなく、過去の蓄積を活かして今日的諸問題に対応・応答する(できれば大勢で)という意味です。そして「遊びの哲学」というのも、やはりエステティックスと子ども・教育というテーマが交差するところですよね。ゲーム研究もそろそろ(というかすっかり)「第二世代」に突入していますので、単に「ゲームを研究しています」という新奇性だけではやっていくことができず、個々の研究者が独特の価値観と視座を持って、それぞれのテーマを掘り下げるような段階に移らなくてはならないな、とここしばらく考えています。そして私の場合、「遊び」はその一つかなと思っています。振り返れば私は、ゲーミフィケーションやゲームの教育利用などと聞くと(もちろんその必然性と意義は十分理解しているつもりですが)どうしても「冷めて」しまう体質で、これまで自分ではそれをまさに皮膚感覚で(まさに体質として)処理してきたのですが、「遊び」の哲学を入れることで、もう少し理論化・言語化できるかなと。まあそんなことも。