いただいたご本
一昨日に届きました。訳者の沼口さん(国立音楽大学)から。感謝。あともう一人の訳者、西田さんにおかれましては、先日の上京時、新婚のご家庭に深夜「ガサ入れ」を決行してしまい、たいへん失礼いたしました(だったらやるなと)。
ハインリヒ・シェンカー著、西田紘子・沼口隆訳『ベートーヴェンの第9交響曲──分析・演奏・文献』(音楽之友社、2010年4月)[Amazon.co.jp]
最近では珍しいと思われる、音楽学関連のハードな翻訳書です。原著は1912年刊行なので、ほぼ一世紀前のもの。シェンカー理論のアクチュアリティについては口を慎みたいが、彼のウアリーニエの概念(それでもって古典的傑作をバッサバッサと裁いていく議論)は、音楽学者(作品の真の解釈や分析的意味というものに懐疑的もしくはすでに無関心な)にとって以上に、演奏家(つねに一つの解釈・意味付けを決定せざるを得ない)にとってはなお有効だろう。ただ、彼の理論は(この本もそうだけど)私のような楽理(音楽理論)的にはアマチュアの人間(「なんちゃって音楽学者」)からすると、やっぱ難しいわ。
私が真っ先に読んだのは、もちろん、第四楽章のレチタティーヴォ部から主題部への移行のくだり、つまり声楽の導入をシェンカーがどう説明しているか、ということだが、これは思いのほか感動的だった。シェイクスピアがその戯曲において不可能なことをどう成し遂げたか(シェンカーいわく「観客が持つであろう疑念を舞台上で(先取りして)議論することで、真実か虚偽かの区別を無効にする」)を参照しつつ、シェンカーはベートーヴェンの「不可能な試み」を読み解く。
で、ふと考えついたのだが、『第九』のこの部分(声楽の登場)に限定して、誰がどういう説明(解釈・評価)をしてきたかを網羅的に調べてみたら面白いだろうな、と。私はハンスリックとヴァーグナーとブレンデルとこのシェンカーくらいしか読んだことがない気がするが、もっと色々な人が言っているはずなので(しかも皆、先人の主張を批判・修正しようとするので議論が「入れ子構造」になっていく)。ここを読んでる中に、ドイツのことやってる音楽学の学生(院生)がいたら、これは絶対おいしいテーマだと思いますよ。もろビンゴの先行研究が無かったら、の話ですが。あったらむしろ私に教えて下さい。
続いて、けっこう前に届いていた(ことを先ほど思い出した)以下の本。少し遅れましたが、ありがとうございました。いただいて程なく直接口頭でお礼を伝えていたので、逆に、ここで書くのを忘れてました。
今谷和徳・井上さつき『フランス音楽史』(春秋社、2010年2月)[Amazon.co.jp]
ルネサンスの専門家と十九世紀の専門家がタッグを組み、「フランスとは何か」というクリティカルな視点から描いた(とマニフェストしてある)、フランス音楽の通史。タイトルもズバリでカッコイイですねえ。お二人とも昔からよく知っている方ですが、届いたときは「へー、この二人が一緒に仕事してんだ」と意外であった。だがよく考えてみれば(いざ読んでみれば)必然的なタッグで、こういうコラボレーションの仕方があるのね、と、その辺も自分にとって勉強になる(例えば、デカルトとドゥルーズの専門家が二人で『フランス哲学史』を書いたら、どうだろうか)。個人的趣味からいえば、先述の「フランスとは何か」という視点を本全体(とくに十八世紀までの記述)にもっと「浸透」させて欲しかったなと感じたが、普通に「通史」として読める本という意味ではこれが限界だしこれで十分だろうとも思う。
じつは他にも幾つかあるのですが、またいずれ別の機会に。
こういう商売をしていると色々な方から本や雑誌(やCDなども)をたくさんいただくわけですが、本来なら全部ちゃんと読んで、ご本人にコメントを返す、さらに言えば然るべき媒体に書評を書く、というのが礼儀ですし、自分の倫理としてもそれが最低限なのですが、時間的・能力的にとても無理なので、せめてここでご紹介させていただくことでお礼に代えられればと(逆のことをやっていただいて嬉しかった経験があるので)。
でも、このブロクもあまり熱心に更新してないですし、何かいただいたら逐一それを紹介する、という風にはいかないので、うっかり紹介をし忘れているものもあるかも知れません(というか確実にあります)。今回はそのうちの一つを思い出したので遡って書きましたが。この辺り、失礼がありましたら、申し訳ありません。