現代宗教と音楽

aesthetica2005-03-13

数年来、気になっていたテーマの一つに「オウム真理教と音楽」があるが、そろそろ自分のなかでまとめたいなと考えている。今年は地下鉄サリン事件から十年になるので、いろいろなかたちで再考がなされるのだろうが、初期においては「癒し系」のコンサート(アストラル音楽)を主な信者獲得の場とし、選挙など何かにつけてキャンペーンソングを流し、ロシアのオーケストラを買収し(もちろん教団がロシアに浸透するためである)、教義のハードコア(タートラ・ヴァジラヤーナの世界観)を教祖の歌にのせて伝達していたこのカルト集団の音楽について、未だにまともな文献がない状態はどう考えてもおかしい。日本以外の研究者がやってもいいのに。これは「自分がコミットできる音楽」のみをもっぱら対象として扱ってきた──クラシックであれポピュラーであれそれ以外であれ──音楽研究者の盲点なのではないか。
オウムの音楽そのものは、昔インターネットで拾ってきた音源(アレフは昔のCDを販売していない)や楽譜(図書館に普通に所蔵されている)によって大体、全貌が見えてきたが、このテーマをつっこんで検討する場合には、浅く広くでもいいから現代宗教の音楽全般を調べなくてはならない、と長いあいだ考えてきて、それがまだ手つかずなのだ。分野は違うが、五十嵐太郎さんの『新宗教と巨大建築』などが一つの見本か。
ところで、最近、日本でも知られるようになったものに、アメリカのいわゆる「メガ・チャーチ」がある。これはブッシュが再選されるときの大きな支持基盤となったため、昨年とくにその存在がクローズアップされた。メガチャーチとは、有名な牧師(彼らの多くはテレビで日本でいう芸能人のように活躍している)がいて、音楽監督の指揮の下、照明や音響装置を派手に使ったまるでオペラのような礼拝を行い、しかも人種の偏りのみならず宗派色をも薄めて(非キリスト教徒のための日もあるそうだ)信者を集める大教会のことである。なかにはジャズまで演奏する教会まであるとのこと。(写真はメガ・チャーチの草分けであるシカゴの「Willow Creek Community Church」だが、どうみても劇場にしか見えない。ここにはロリー・ノランドという音楽監督がいて『The Heart of the Artist: A Character-Building Guide for You & Your Ministry Team』(1999年)という本まで書いているそうだ。ヴァーグナーの楽劇理論の現代版亜流のようなものではないかと勝手に想像するが(笑)。)
で、このメガ・チャーチアメリカの一種のキリスト教原理主義の温床になっている、ということがしばしば指摘されるのだが、そうであるならばいっそう、そこではいかなる礼拝(祝祭)が行われているのか、いかなるジャンルの音楽が用いられているのか、プロテスタントの「会衆歌」の伝統は現代にいかにずらされて延命しているのか、という点が気になる。現代宗教と音楽という問題を考える際には、メガ・チャーチの音楽実践についての調査もしなくてはならないな、と考えている。
オウムの音楽の場合、仏教音楽の伝統とはまったく切れたところで作られつつ、様式のレベル(音階、楽器、テンポなど)で「日本的なもの」や「偉大なもの」が演出され、歌詞のレベルで教祖の教えが伝達され、テクノロジーウォークマン、ヘッドギアなど)のレベルで教祖の「声」が信者に内面化・身体化された。オウムの音楽は、文字通り、ポストモダン時代の申し子なのだ。
それに対して(現代宗教としてオウムと同じカテゴリーに括ることはむろんできないが)メガ・チャーチの音楽には、どこまで従来のキリスト教音楽との連続や断絶、もしくは現代性が指摘できるのだろうか。もしかしたら完全にポピュラーカルチャー化していて(「日曜は家族でレイブにいくよ」的感覚)、そこでの音楽や礼拝そのものには宗教的な意味合いは希薄なのか。あるいは逆にポピュラーカルチャー自体が宗教的価値に転化されているのか(これが一番ありそうだが)。だとすれば、そこで流れるのにもっともふさわしい音楽は何なのか。などなど、関心は尽きない。
まあいずれにしても調べ始めたばかりなので、メガ・チャーチの音楽実践についてもっと詳しいことをご存じの方がありましたら、是非ともご教示下さい。