錯覚について少々

最近、「錯覚」についてあらためて原理的に考えたいと思っている。
・錯覚とは、基本的に二つ(以上)の知覚的データ(あるいは基準)の齟齬から生じる。「目で見たら長さが違うが、計ってみたら同じ」(垂直水平錯視)とか、「触覚的には二つだが、目で見たら一つ」(いわゆる「アリストテレスの錯覚」)とか。
・だが錯覚は、幻覚や誤謬とは異なる。後者が再現性や恒常性を持たないのに対して、前者は同じ条件のもとでは誰にでも必ず同じように生じる。多くの人が共通して体験できないと錯覚とは言わない。その意味で錯覚は(通常の知覚と同じくらい)「普遍的」と言える。(ただし感覚はそもそも疑わしいと考える立場(例えばデカルト)からみれば、錯覚も夢も幻覚も同じもの。錯覚を夢や幻覚から区別すること自体が、かなりの程度「近代的」(後述)なのかも知れない。これはこれで巨大な研究テーマ。)
・そのため錯覚の考察は、通常の(「正常」とされる)知覚の考察と必ずセットで(同時に)なされる(実際なされてきた。視覚理論・光学の古典的トポスである「月の大きさの錯視」や「水に入れた棒が曲がる」問題が典型)。というのも、ある知覚の結果が錯覚である、という判断・決定は、もう一方の知覚(基準)がよりいっそうの事実性・真理性を持つ、ということからしか導かれ得ないからだ。二つ(以上)の価値システム・基準を比べて、勝った方が正しい知覚、負けた方が錯覚なのだが、それはどこまでも相対的な程度問題でしかない。
・さらに言えば、主観色(フェヒナー)が目の機構を明らかにしたように、(フーコーが言う意味での)「近代的」な人間(身体)の研究は、錯覚をきわめて重要な(実は最大の?)リソースとしてきたと考えられる。人間性、言い換えれば知覚の不透明性とは、錯覚のことである、とすら言うことが可能である(これはすでに誰かが(誰もが)言ってそうな凡庸なフレーズだが)。
以上は私がいま即興で言語化したことなのですが、そういう感じで錯覚の定義・概念史・付随問題が分かりやすく書かれている本ってないですかね? 昔の哲学書(古典)でもいいし、最近の研究書でもいいです。「真理と錯覚」とか「イデアと錯覚」みたいな題名の思想史(哲学史でも美術史でも科学史でも)の本があれば、ビンゴで嬉しいのですが。論文でもいいです。
とにかく錯覚は美学=感性学者が取り組まなきゃいけないテーマの一つだと思います。
今日はこれからビデオゲーム研究関連の座談会企画(某雑誌依頼)のシナリオを書きます。任天堂の方と、元ナムコの方と、元ハル研究所および『ファミ通』の方という、私以外はすごいメンツ・超有名人(その世界では)ばかりです。座談会は原則非公開ですがオーディエンスを入れる予定なので、もしかしたらここでも告知する(できる)かも。もちろん座談会の中身は活字になります。サッカー日本戦が始まるまでに終わるかな。